これが「モノづくりニッポン」の底力だ!還暦ライダー&技術者たちが挑む『世界最速のスーパーカブ』
本田宗一郎の傑作「スーパーカブ」を“魔改造”
「小さい頃から、郷土の大先輩、海洋冒険家の堀江謙一さん(兵庫県芦屋市在住)に憧れていた。世界一小さなヨットでの世界一広い海(太平洋)の横断。いつか自分もそんな小さな大冒険に挑戦したいと思っていた」 近兼は16歳になるとオートバイの免許を取り、ロードレースに夢中になる。折しも、ホンダやヤマハが若き日本人ライダーを起用して世界グランプリに参戦中。鳥取大学農学部でバイオサイエンスを専攻していた近兼は、卒業目前に中退してプロライダーとなる。 ところが23歳の時、レースで転倒して首や背骨、腰など13カ所を骨折。社会復帰まで2年半を要し、引退を余儀なくされる。 入院中に書いた体験記が評判を呼び、ライターの道に飛び込む。自身も被災した阪神・淡路大震災後では、西宮市で復興支援ラジオ局「FMラルース」を開局。ラジオのパーソナリティーも務めた。そうした経験を生かして、放送作家、映画監督へと仕事の幅を広げていった。 ボンネビルに挑戦するきっかけとなったのは、2016年に全国公開した2作目の映画『切り子の詩』。下町の金属加工会社を取材する中で、日本のものづくりのすごさに魅了された。 「50ccのスーパーカブのエンジンを彼らの技術で“魔改造”し、ボンネビルで世界最高速に挑戦したい」
高校時代、免許を取って最初に乗ったのが父親のスーパーカブ。「東洋のエジソン」本田宗一郎が生んだメイド・イン・ジャパンの代表作である。 スーパーカブは、新聞や牛乳、郵便などの配達に使われてきた商用車だ。エンジンの基本設計は50年ほど前のもので、最高出力は3.7馬力、最高速は時速60キロにも届かない。だが、近兼はあえて、この非力な「4ストローク&空冷」エンジンにこだわった。 「誰でもできることをやっても意味はない。最も不利なエンジンで、最も難しいメカニズムを完成させ、最速記録を達成する。一見不可能と思えることを可能にしてきたのが、メイド・イン・ジャパンのものづくりだったはずだ」 近兼が熱く思いを語ると、精密・微細金属加工業を中心とした約30の企業の技術者たちが共鳴し、支援を申し出た。