「子ども3人の父親役もこなさなければ」シングルマザーの奮闘は病で崩壊した 原発事故で県外避難、12年後「再建格差」の現実
シンクには食器がたまり、床には湿ったままの衣服が積まれていた。2019年冬、大阪府内の公営住宅。住人でシングルマザーの佐藤礼子さん(48)=仮名=は適応障害による体調不良で、布団から出られない。 夫と離婚した後、高校生~小学生の子ども3人を育てるため懸命に働いてきたが、体が悲鳴を上げた。福島市の実家には両親がいるが、頼りづらかった。東京電力福島第一原発事故の後、避難してきたためだ。(共同通信=西村曜) ▽避難指示区域の外にあった自宅 2011年3月11日の東日本大震災まで、佐藤さんは福島市で夫と子ども3人、義理の両親の7人で暮らしていた。車好きの夫は、週末になると子どもらを連れてよくドライブへ出かける。福島市を見下ろす吾妻山のスカイライン、宮城や栃木まで行くこともあった。佐藤さんは近くに住む実母とショッピングモールに買い物に行き、ママさんバレーのチームで汗を流した。 その生活は一瞬で崩壊した。3月12日以降、テレビには青空の下で白煙を上げる原子炉建屋の姿が連日映された。佐藤さん宅は原発の北西約60キロ。政府による避難指示の対象外だったが、風向きのせいか、放射線量が高い地域は原発から北西方向に伸びている。日を追うごとに街を離れる人が増えていった。スーパーでは県外産の野菜が売れ、地元産は棚に残ったまま。子どもと外出するときは草や土に触らせないように気を付けた。
佐藤さんは自問自答を繰り返した。「成長期の子どもたちを福島で育てていいのか」「将来子どもから『なんで避難してくれなかったんだ』って言われたらどうしよう」 悩んだ末に避難を決意した。夫は消極的だったが、1年かけて説得。2012年3月、仕事がある夫だけを福島に残し、子どもと大阪へ移った。大阪は旅行でしか行ったことがなかったが、事前に調べた際、住宅支援が手厚そうだと感じていた。 たどり着いたのは大阪府営住宅の3階。新居の窓から外を見ると、小さな公園があった。 子どもたちが笑顔で飛び出していく。滑り台とブランコぐらいしかないが、もう草や土に触れることを気にしなくてよかった。「当たり前のことがこんなにうれしいんだ」。佐藤さんはほっとした ▽働き過ぎで病に伏せる 数年後には福島に戻るつもりだったが、大阪の友達が増えた子どもたちは残りたがった。帰還を望む夫と次第に意見が合わなくなり、2016年末に離婚した。これからは自分ひとりで稼がないといけない。収入を増やそうとパートをやめ、福祉施設の事務職としてフルタイムの仕事を得た。