いとしいしぐさ、笑い声…会えなくても忘れない、2人の孫に届ける心の歌 夫と長女も津波の犠牲に。コンサートを開く女性の願いと、これまでの13年
震災からは月日が過ぎ、被災地であっても、以前は多くの場所で催されていた震災発生日の追悼行事が減った。職場などで黙とうすることすらなくなるなど、記憶の風化は否めない。佐々木さんは「同じ悲しみを味わってほしいわけではない。ただ、つらい気持ちを抱えた人がいることを分かってほしい。想像力を働かせてほしい。私の孫のためだけではなく、悲しみを抱えた多くの人たちに共感を示すためにも、この歌を知ってくれれば」と語っている。 ▽無事が確認できたのは長女の夫だけ 2011年3月11日午後2時46分、教員だった佐々木さんは海岸から6キロほど内陸の山あいにある釜石市立栗林小で児童の台帳に記入を始めたとき、激しい揺れに見舞われた。大きな被害を予想し、体育館に運動用マットを敷いて、発電機を確保。やがて、津波にさらわれてずぶぬれになった女性が運び込まれてきた。すぐにでも自宅へ戻りたかったが、道路の寸断で近づくことさえできない。避難してきた住民は一時、800人以上にも達した。混乱の中で受け入れの対応に追われ、家族を捜しに行くことができたのは3日後から。無事が確認できたのは長女祝田美穂(いわいた・みほ)さん=当時(27)=の夫だけで、自宅があった場所には基礎部分しか残っていなかった。
被災から約1週間後、美穂さんの遺体が、自宅から近い大槌駅の周辺で発見された。6月には、美穂さんの息子悠弥ちゃんが、がれきの中から見つかった。火災に巻き込まれていたが、片方の足に名字が書かれた靴を履いていたため、すぐに引き取ることができた。佐々木さんの夫守夫(もりお)さん=当時(55)=の遺骨がDNA型鑑定で特定されたのは11月。美穂さんの娘はるひちゃんとともに、同居していた守夫さんの妹佐々木洋子(ささき・ようこ)さん=当時(46)=の帰宅は今もかなっていない。 ▽入学式用のスーツとリュックサックを孫のひつぎに。体も心も悲鳴を上げていた 佐々木さんは被災後、花巻市の実家や学校近くの親族宅、仮設住宅と避難先を転々としながら、教員としての責務を果たそうと努めた。母親や妹と津波にのまれて1人だけ救助され、心が不安定な児童もいた。「目の前の子どもたちのために、この1年はがんばろう」と自分を奮い立たせた。それでも、夏休み後から体調が悪化。亡くなった美穂さんらのことが頭から離れず、気持ちがふさぎ込んでしまう。食欲が減って体重が減少した。不眠が続き、大きな音や風の音にも敏感に反応してしまうなど、体も心も悲鳴を上げ始めた。