ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート
絵画100年史を紡ぐ企画展、実作は総資料数のおよそ半数の116点。「後世に残すべきものとして絵画が見られていなかった」
「絵画の100年」を謳う本展だが、絵画の実作は多くはない。全236点の出品物のうち、油彩画や木版画などは116点。それ以外は書籍・テキストや画材などの資料、写真を引き伸ばしたパネルなどが並ぶ。 吉國元(以下、吉國):(実作の)点数がなぜ少ないのかは慎重に検討しなければならないところです。ハンセン病療養所では文学、合唱や演劇などのさまざまな文化活動が行なわれてきましたが、今回とくに焦点を当てている「絵の会」(※1)の会員は記録で確認できる限り、最大でも60人程度で、文学などに比べると小規模な活動だったといえると思います。 1955年には東京都美術館での『第9回旺玄会展』(※2)に会員9名が入選し、活動のピークを迎えますが、そこから急激に活動が衰退していきます。1947年頃に治療薬プロミンが導入されてハンセン病が治療可能になっていくなかで、障がいが比較的軽い、若い入所者の社会復帰が1960年代に急増し、あわせて実社会で役に立つ技術の習得に比重が置かれるようになりました。つまり「絵なんか描いてる場合じゃない」という認識が60年代に園内で広がっていったのかもしれません。この時期は「絵の会」の衰退と重なります。 もう一つの理由として、後世に残すべき資料として絵画が扱われてこなかったこともあるでしょう。描いた作家本人が持っていたけれど、どこかに失くしてしまったり、あるいは作者の没後に捨てられてしまったものも多いのではないか。 ハンセン病療養所では園内誌の発行があり、入所者の文学や詩、エッセイなどを残すことには積極的でした。活字で残りますからね。ですが、絵画となるとなかなか難しい……。多磨全生園に関しては、1960年代の後半からようやく患者・回復者の生き抜いた証ともいえる生活道具や創作物を残す取り組みが行われ、それは国立ハンセン病資料館の前身である高松宮記念ハンセン病資料館(1993年に開館)に引き継がれました。国立ハンセン病資料館が所蔵する絵画作品も多くが1970年代以降のもので、それ以前のものの多くは失われています。 ※1 「絵の会」……多磨全生園の描き手たちが集まった絵画サークル。医師、義江義雄の提案によって1943年に結成された。 ※2 旺玄会(おうげんかい)……洋画家の牧野虎雄が主宰し、その盟友と門下生が1923年に結集した美術団体。「旺玄社」として活動をはじめ、戦後の1945年に「旺玄会」と改称し、現在も継続して活動している。 今回の展示で紹介されている9作の入選作は、すべて多磨全生園で発行されている機関誌の記事からの転載写真だ。 阿蘇篤の『病室』、村瀬哲朗の『洗濯場』など白黒の粗い図版から構図の巧さは伝わってくるものの、色や質感はわからない。1955年の9人同時入選の快挙を皮切りに、1959年の『第25回旺玄会展』まで断続的に入選は続いた。「絵の会」最盛期の作品が、1958年(第24回)入選の長州政雄『武蔵野の森』の1点のみしか実物で見られないのが悔やまれる。 吉國:展覧会をつくる過程でも困難さを感じました。それこそ点と点をつなげるように歴史を語っていくような調査でした。 自身も絵を描いていた園内医師の義江義雄の提案で「絵の会」が結成されたのは1943年ですが、園内で絵画運動が始まったのはその20年前に遡ります。第一区府県立全生病院(現在の多磨全生園)にあった礼拝堂は儀礼的・宗教的行事のほかに「全生歌舞伎」の公演や講演会などが行なわれる多目的施設で、1923年10月31日から11月3日まで「第壱回絵画会」が開催されています。同展は記録写真も出品リストもまったく残されておらず、入所者の山本哨民(やまもと しょうみん)の文章が当時の機関園内誌『山桜』に掲載されているだけです。 吉國:このようにモノが残っていない現状をふまえて展示をかたちづくっていくなかで、とくに強調したかったのが長浜清という描き手の存在です。長浜は岡山県の長島愛生園に入所して詩と絵を園内で発表していましたが、絵を学ぶ目的で1969年に多磨全生園に転園します。これは推測ですが、絵画に関する情報が比較的集まりやすい東京に行くことを希望したのかもしれません。しかし健康状態の悪化で絵を一枚も描くことなく43歳で亡くなりました。 園のなかで絵が描けなかった人もいた、つまり、モノを残せなかった人もいたということは、歴史を見ていくなかでとても大切な前提になるように思えました。歴史を考えるなかで、残されたモノだけではなくて、残されなかった表現を可能な限り想像することに意味があるんです。 1971年に発行された長浜清の遺作詩集『過ぎたる幻影』には、彼と親交のあった光岡良二があとがきを寄せている。そこには長浜が不調を抱えながら、体調のよいときには美術館や絵画展を見に行っていたという記述とともに、長島愛生園時代に書かれた詩について述懐されている。 「これらの、ほんとうに自分ひとりのために書いたような詩篇の中に、彼のいい素質が、飾らず、素朴に、原質のままきらめき光っているように思えた。 光岡のあとがきに限らず、この展覧会や同時に制作された図録では、作家やその作品について、別の誰かが書き記した記録が積極的に紹介されている。実作が失われたとしても、その表現は波紋のように誰かに影響を及ぼして、言説やまた別の表現のなかに根付いていく。そのようにして人と人が補完し合う関係性から語りうる歴史があるということを本展は伝えているかのようだ。」