「長嶋茂雄引退試合」でひっそりと現役を退いた”もう一人の選手”の正体…川上監督が「お前もおつかれさん」と労った”稀代の満塁男”
徳島商業で甲子園春夏連続出場。慶應大学時代は長嶋茂雄の通算本塁打記録(当時)である8本に並ぶ大記録を達成し、ドラフト3位で中日に入団。 【一覧】プロ野球「最も愛された監督ランキング30」最下位は、まさかの… 西鉄ライオンズや巨人を経て最後は古巣・中日で現役を終えた。引退後は中日スポーツ記者、コーチ、編成部長などを務め、日本プロ野球界の表と裏を知り尽くす。その人物とは広野功。 100年近い歴史を持つ日本のプロ野球界だが、広野はその節目となる出来事に立ち会ってきた稀有な人物といえる。『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)から一部抜粋・編集して、お届けする。
古巣に3度目のトレード
「ドラフト一期生、黒い霧事件、巨人のV9など球界の節目に、僕はたまたま居合わせることができました。中日に帰ってきて、大した仕事はできなかったけど現役最後に、球界の大きな歴史の1ページに立ち会うことができたんですわ」 広野の現役最後の年となる1974年、セ・リーグはまれに見る混戦となった。中日と巨人が熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的にゲーム差は0。中日は10月12日の大洋とのダブルヘッダーで連勝し、勝率1厘差で20年ぶりの優勝を果たしたのである。 中日が華々しい結果を残したこの年、広野は35試合に出場するも1本塁打に終わり、現役引退をしている。現役最後の1本は、平松政次から打った。広野にとって平松は1971年の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放った後に死球を受けた因縁の相手だった。 「通算78本目を平松から打てたのは印象深いですね。しかも、この年の中日はゲーム差なしの勝率で優勝しているわけですから、僕の一打による1勝がなければ優勝は危うかったかもしれない。そう思うと最後に最低限の貢献はできたかなと思っとるんです」
宿敵・堀内との因縁
また、広野が引退を決意したきっかけは堀内恒夫との対戦だ。広野と堀内には、さまざまな因縁があった。 広野はプロ1年目に、堀内から逆転サヨナラ満塁本塁打を放った。広野と堀内は、年齢は違えどドラフト一期生の同期である。広野の母も「堀内君に負けないように」と再三手紙を出して、発破をかけていたという。一方の堀内も広野が巨人へ入団した際、顔を見るなり「これでやっと厄祓いができた」と言ったというから、お互い意識し合うライバルであったのだ。 「僕はプロ入り直後に怪我をした右肩がずっと痛かったんです。試合後はアイシングして朝起きたらゆっくり動かす日々でした。かなり体はしんどかったし、実際の成績を見てもここまでかなと。ただ、最後に堀内が投げているときにもう一度、代打で出たいと思ったんですよ。堀内と最後の勝負をして、自分の野球人生に見切りをつけようと思ったわけです。打てても打てなくても辞めようと」 そのチャンスはシーズン早々に実現した。1974年5月12日の巨人戦。1対1 で迎えた延長11回裏に、中日は満塁の場面を作ったのだ。巨人のマウンドには堀内。相変わらずふてぶてしい様子で立っている。 ベンチ裏のスイングスペースから、その様子を見ていた広野は「ここしかない」と悟った。そして、すぐに打撃コーチだった徳武定祐に直訴した。
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