<ヒバクシャ>「忘却は原爆の肯定」背中に大やけどの谷口稜曄さん 被爆者の証言
「核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきた」。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞理由では、被爆者による証言の力がたたえられた。毎日新聞が2006年秋から続ける記録報道「ヒバクシャ」はこれまでの掲載が計307回を数え、「同じ体験をしてほしくない」との思いで証言し、行動する人たちの姿を伝えてきた。被爆者が後世に託した言葉を改めて届けたい。【構成・宇城昇】 【写真特集】記録報道「ヒバクシャ」で証言した被爆者たち ◇夕焼けを見ると 「夕焼けを見ると不安や苦しみがわき上がって、気分が悪くなるんです」 岡田恵美子さん(21年に84歳で死去)は広島原爆の爆心地から約2・8キロの自宅で閃光(せんこう)に襲われた。高等女学校1年だった姉は自宅を出たまま帰ってこなかった。岡田さんは50歳を過ぎてから国内外での証言を30年以上続けた。15年春の取材に「あの時の真っ赤な空が、雲のない日の夕焼けと同じ色だった」と語った。 ◇忘れてはいけないことがある 「人間は忘れるから生きられる。でも、忘れてはいけないことがある」 漫画家、中沢啓治さん(12年に73歳で死去)の代表作「はだしのゲン」は、原爆投下時に広島市内の国民学校1年生だった自身の体験が基になっている。06年秋の取材にこう語った中沢さんは、「ゲン」の描写が過激だという声にも「おれは、うそは描けん」と惨状を描き込むことにこだわった。 ◇目をそらさないで 「私は見せ物じゃない。でも、忘却は原爆の肯定につながる。目をそらさないで」 長崎原爆被災者協議会の会長だった谷口稜曄(すみてる)さん(17年に88歳で死去)は、背中に大やけどをした自身の写真をかざしながら、国内外で証言を続けた。06年秋の取材に語っていた言葉を繰り返した。10年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米し、国連本部でのNGOセッションで講演した。亡くなった年の取材には「苦しみに耐えた分、核兵器廃絶の運動を頑張ってきた分、命が延びたのかもしれない」と語っていた。 ◇「未来はどのようにもできる」 「過去のことは変えられない。でも、未来はどのようにでもできるじゃろう」 坪井直(すなお)さん(21年に96歳で死去)は、広島県被団協理事長、日本被団協代表委員を長く務め、国内外で証言活動を続けた。16年5月に米大統領として初めてオバマ氏が被爆地・広島を訪問した時には平和記念公園で握手を交わし、記者には対面した感想を語った。生前、「ネバーギブアップ」と繰り返し、これからの世代へのメッセージを残した。