昭和天皇は、空襲のとき「なかなか避難しようとしなかった」…その意外な理由
側近との意外なやりとり
日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。 とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があることでしょう。 【写真】天皇家に仕えた「女官」、そのきらびやかな姿 戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。 著者の藤田尚徳は、海軍兵学校、海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。 本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦時中の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿が見えてきます。 たとえば、昭和天皇は空襲が激化してからも、ゆっくりと避難をすることが多く、側近たちに急き立てられていたそうです。しかし、そこには意外な理由がありました。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** 夜間の空襲が激しくなって、深夜も待避することが多くなった。だが、なお両陛下のお出ましは遅い。そこで侍従が、私に相談にきた。 「万一のことが起きては大変です。どうか侍従長から陛下に、お急ぎになるよう申上げて下さい」 もっとものことであるから、早速、御前にでて申上げた。すると陛下のお言葉は、 「侍従長、よくわかった」 こうであった。ところが、その後の空襲警報でも一向にお急ぎになる気配がない。これでは侍従長の言葉も効果がなかったと思わざるを得ない。そこで陛下に御忠告しやすい甘露寺受長(かんろじ・おさなが)氏から、きつく申上げることにした。甘露寺氏は侍従次長ということになっていたが、宮中でいう『勝手づとめ』侍従の元老格であった。大正天皇の御学友で、また陛下にも長く侍従として奉仕した方である。 「お上、みなの心配をお考えいただかなければなりません。どうぞ急いで待避なさいますように……」 甘露寺氏の直言に、陛下はやや相好をお崩しになったように思う。 「うん、実はね、良宮(ながみや)が待避の準備に手間どるものだから……」 陛下は皇后さまをお待ちになっていたのであった。米軍機の爆音が、遠雷のように夜空に響くと、誰しもが我先にと防空壕にかけこんだものであった。こんな時にも陛下は、皇后さまの御準備を、いつもお待ちになっていたのである。管制をほどこした暗い灯火のもとでは、皇后さまの身じまいが遅くなるのも当然である。 甘露寺氏も、陛下のさりげない一言で、たじろがれた。だが、この方は独得のユーモラスな人柄だったから、すかさず、 「皇后さまも、お急ぎいただかなければなりませぬ。もし、警報が鳴った時、皇后さまが裸でいらっしゃいましたなら、そのままでもよろしいではございませんか」 「裸でも……」とは、思い切った冗談であった。御前では誰もが言えぬ言葉であるが、皇后さまは、軽く受け流された。 「はい、仰せのとおりに致しましょう」 言葉には笑いがあった。皇后さまは陛下と顔見合せてニコリとなさった。この甘露寺氏のお願いから、両陛下の待避が早くなった。何くれとなく皇后さまをおかばいになり、その立場を尊重なさるのは陛下のご性格でもある。 *** 昭和天皇と側近の、絶妙の関係が垣間見える一節です。 さらに【つづき】「昭和天皇が「空襲」のあとに放った「驚きの一言」…その発言から見える「天皇の意外な性格」」の記事では、藤田から見た天皇のパーソナリティについてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部