105歳で死去した画家弥勒祐徳さん おごらず、黙々と、ひたすらに神楽など描く
【追悼評伝】
弥勒祐徳さんと初めて会ったのは二十六年前、個展会場だった。宮崎市内の画材店二階。絵の具にまみれた作業服の小柄な弥勒さんがいた。百号の大作が五、六枚。西米良村(宮崎県)の村所神楽を描いた一枚は画面中央に山の神が両手を広げていた。女性の姿をした山の神は体をひねってこちらを向き、着物の合わせから片方の乳房がはみ出している。周りで村人たちが踊っている。山の神と目があった瞬間、私は腰の辺りをドーンと突かれたような衝撃を受け、よろよろと座り込んだ。紫色に縁どられた目が射るような光をたたえている。怒りだろうか、神楽は祭りだというのに。 【関連】画家の弥勒祐徳さん、105歳で死去 宮崎の自然や風俗描く ひと月たっても「あの目」が気になって仕方ない。弥勒さんの自宅(同県西都市)を訪ねた。西都原古墳群の桜並木を描いた絵が置かれていた。画面から柔らかい風が吹いてくるようで再び絵の前から動けなくなった。私は弥勒さんの一代記を書くため週に一、二度、泊まりがけで通った。それは約二年間続いた。 何かを尋ねると弥勒さんは両手を組んで額に当て、髪をむしりながら、はにかんだような笑みを浮かべる。 「(それは)いかんですなあ」。もしくは「(それは)いいですわー」と答えるだけ。 幼少期は日中戦争へと向かう時代。農村は疲弊した。農地を持たなかった弥勒家は赤貧生活。母が早朝から豆腐を作り一丁五銭で二十丁を売り歩く。一日一円でどうにか生き延びた。これだけ聞くのにほぼ一カ月を要した。 航空機の整備兵として四年余り従軍している。部隊が中国北部からフィリピンに転戦する際に立ち寄った門司港で満期除隊となった。戦友たちの多くが亡くなった。マラリアに罹(かか)り、飢えて倒れた。 「四十過ぎまで毎晩、夢を見ちょりました。悪夢にうなされてよ」 死者たちの霊が取りついていたのだろう。初期の絵は暗澹(あんたん)たる色調である。 「君の絵は汚い。いつまで戦争を引きずっているか」 画家仲間は容赦ない言葉を浴びせた。宮崎県展では入選止まり。美術評論家の坂崎乙郎さんが審査員に招かれたのが転機となった。坂崎さんは弥勒さんの神楽の作品を特選にすえ、こう評した。 「人々が人生の喜怒哀楽を丸ごと受け止めたように踊っている。この国は未だに卑しい中央集権だが、彼は宮崎に骨をうずめる覚悟で描いている」 それからの弥勒さんは絵筆を握って放さなかった。おごらず、黙々と、ひたすらに。最後に会ったのはコロナ禍の直前。シニアカーに画材を積んで西都原古墳群で桜を描いていた。今年に入ってからだんだんと食が細くなり、最後はジュース類しか喉を通らなくなったという。今年二月、百五歳の誕生日に、紙に書き残した言葉がある。サインペンを持つ手が震えたのだろう。それでも 「人生はうんと明るく、生きる生きる」 と読むことができる。棺の顔は穏やかだった。 (元西日本新聞文化部長・井口幸久) ※画家、弥勒祐徳さんは5月16日、105歳で死去。