「母子手帳が示す成長の目安が苦しかった」重度の知的・身体障害の息子を育てる母が「障害と共に生きるためのブランド」を立ち上げるまで
「母子手帳の存在がとてもつらかった」と語る山崎絵美さん。重度の知的・身体障害児を育てるなかで感じた課題感から、ある商品の開発に乗り出します。(全2回中の1回) 【写真】妊娠7か月、700gの早産で生まれた息子いっくんが初めて保育器の外に(全10枚)
■「普通の出産」と疑わなかった3人目の出産 ── 2015年、3人きょうだいの末っ子として生まれた息子さん・いっくんは重度の障害を抱えていました。当時の状況を教えてください。 山崎さん:いっくんは妊娠7か月、700gの早産で産まれました。命の危険な状態で、産声を上げることもありませんでした。上の子2人に障害はなく、産まれた瞬間もお医者さんたちは笑顔で「おめでとうございます」と言ってくださったのに、いっくんの出産ではそんな雰囲気はいっさいありません。分娩室には、お医者さんや看護師さんたちが10人ほどいたんですけど、いっくんの命を救うためにあわただしく処置してくださっているなかで、私はもう何が何だかわからないという状況でした。
こんなことが自分の身に起こるなんて、まったく想像していなかった。今まで感じたことのない「絶望」という気持ちに押しつぶされながらひとりで病室に戻ったことは覚えています。 ── そこから気持ちを立て直すのは難しかったのではないでしょうか。 山崎さん:最初は、命が助かっただけでありがたいと思っていたんです。でも時間が経つにつれて、ハイハイや会話など、いっくんの「できないこと」しか見えなくなってきて…。徐々に、周囲を羨んだり、妬んだり、妊婦さんを見かけるのもつらくなってしまいました。「誰のせいでもない」とみんながなぐさめてくれましたが「こんな体に産んでしまって申し訳ない」と自分を責める日々でした。誰にも会いたくなくて、買い物も隣町のスーパーまで行って隠れるように暮らしていました。
── 笑顔が素敵な今の姿からは想像できません。 山崎さん:あのまま気持ちが落ち続けていたらどうなっていたのか…。そんな落ち続けていた穴から私を引っ張り上げてくれたのが、当時まだ小学生だった上の子たちです。母親が悩んでいても関係なく「お腹すいたー!」って言ってきますしね(笑)。「3人の子どもたちを育てなきゃ」と「現実」に引き戻してくれました。 あとは、いっくんが療育施設に通うようになって出会ったお母さんたちや支援者の方たちの存在がとても大きかったです。同じように悩みながらも前向きに子育てに向き合う親御さんたちや、いっくんに笑顔で接してくれる支援者さんたちと出会えて「私はひとりじゃない」「この子を育てていいんだ」と思えたんです。