いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
紫式部の晩年と死
一方、紫式部が当時盛んになっていた浄土(じょうど)信仰に傾倒していたことは、『源氏物語』の「横川僧都(よかわのそうず)」(源信〈げんしん〉がモデルとされる)に明らかである。 『紫式部日記』でも、求道(ぐどう)の願いを記しているが、浮舟(うきふね)はそれを投影したものであろう。 紫式部が長和(ちょうわ)三年(一〇一四)に死去したという推測もあるが、『小右記』に記録されている少なくとも万寿四年までは見える取り次ぎの「女房(にょうぼう)」との交流を考えると、紫式部が寛仁(かんにん)や治安(じあん)、万寿、長元(ちょうげん)年間まで存命し、宮廷に出仕(しゅっし)していた可能性も、十分に考えられるのである。 ちなみに、紫式部が清水寺に籠った際に、仲のよい伊勢大輔(いせのたいふ)と会って、「院」(彰考館〈しょうこうかん〉本)の御料にと、ともに燈明を奉献し、「紫式部」が樒(しきみ)の葉に書いて寄こした歌というのが、『伊勢大輔集(いせのたいふしゅう)』(後に『新千載和歌集〈しんせんざいわかしゅう〉』に収載)に残っている。 彰子が女院(にょういん)となったのは万寿三年(一〇二六)正月十九日のことであり、「院」というのが後の追記でなければ、かえってこの詞書はそれ以降も紫式部が生存していたことを示しているのである。 『院号定部類記』に引かれている『権記』の逸文には、彰子と共に出家した女房の名が列挙され、そこには紫式部(藤式部)の出家について記載がないが、紫式部はすでに死去していたと考えるよりも、すでに出家していたか、出家せず女房として出仕し続けたか、といった可能性が考えられる。 結局は、紫式部は生没年共に不詳ということなのであろう。
時代の変化――平忠常の乱
道長の死後半年を経た長元元年(一〇二八)六月、東国で平忠常(ただつね)の乱が勃発(ぼっぱつ)した。時代は確実に変わっており、道長が「この世」と思っていたのは、じつは京都だけ、もしかすると宮廷内部だけの話だったのかもしれないのである(倉本一宏『内戦の日本古代史』)。