いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
汚穢は無数、飲食は絶え…道長の死
十一月十日には道長は重態となり、臥したまま汚穢(おあい、糞尿)を出すという状態となった。十三日には沐浴(もくよく)して念仏をはじめるなど、極楽往生に向けた準備をはじめた。 十一月二十一日には危篤となった。ますます無力にして痢病(汚穢)は無数、飲食は絶えた。また背中に腫物(しゅもつ)ができたが、医療を受けなかった。後一条の行幸(ぎょうこう)も、今となっては悦(よろこ)ばないとのことで、訪ねてきた彰子と威子(いし)も、直接、見舞うことは難しい状況であった。汚穢によるものとのことであった(『小右記』)。 十一月二十四日、道長が入滅(にゅうめつ)したという誤伝が駆けめぐり、上下の者は土御門第(つちみかどてい)に馳せ参った。この日、道長は震え迷うという症状を起こし、皆はやはり時が至ったことを思い、遠近に馳せ告げたという。針博士(はりはかせ)の和気相成(わけのすけなり)は、背中の腫物の勢いが乳や腕に及び、その毒が腹中に入ったのであって、震えているのは、頸(くび)が思った通りにならないからであるという見立てを行なった。これに針治(しんじ)を施し、瘡口(かさぐち)を開くことになったが、日が悪いということで三十日になって延期されている(『小右記』)。 十一月二十五日、道長は法成寺阿弥陀堂(あみだどう)の正面の間に移った。もちろん、九体阿弥陀像(くたいあみだぞう)の前である。二十六日にはふたたび危篤となり、やはり後一条の行幸が行なわれた(『小右記』)。 そして十二月一日の夜半、但波忠明(たんばのただあきら)によって背中の腫物に針治が施された。膿汁(うみじる)と血が少々出て、道長の叫ぶ声は、きわめて苦し気であったという(『小右記』)。
道長をめぐって入り乱れる情報
十二月三日の午後にはふたたび、入滅したという報が伝わった。実資が様子を見に行かせると、「すでに事実でした」とのことであった。ただ、夕刻になって届いた報では、「胸だけは暖かいままである」とのことで、じつはまだ死んでいなかったのである。夜に入って届いた報は、「ただ頭だけが揺れ動いている。その他は頼みが無い」というものであった(『小右記』)。さすがは道長、恐るべき生命力と称するべきであろう。 十二月四日が明けると、またさまざまな情報が入り乱れた。道長は昨日、入滅したが、夜になって揺動する気配があった。しかし、四日の早朝には、すでに入滅したので、亡者(もうじゃ)の作法を行なったというのが、一般的なものであった(『小右記』)。 ところが、朝になっても腋(わき)に温気があるというので、上下の者はまだ生きていると言い出した。実資は、「荒涼(こうりょう、いい加減)のようなものである」と不機嫌であるが(『小右記』)、長徳(ちょうとく)元年(九九五)以来三十二年間、何者にも代えがたい影響力を行使し続けてきた道長であればこそのことである。この年、道長は六十二歳であった。 じつは十二月一日から患いついて飲食も受けつけていなかった行成が、この四日の深夜、廁(かわや)に行く途中で顛倒(てんとう)し、そのまま死去した。「一言も無く、頓死(とんし)のようであった」という(『小右記』)。五十六歳。こちらも道長の側近ならではである。 道長の葬送は、十二月七日の夜、鳥辺野(とりべの)で行なわれた。 頼通が康平(こうへい)五年(一〇六二)に道長の墓を訪れた際の記録(『定家朝臣記(さだいえあそんき、康平記〈こうへいき〉』)によると、墓は木幡(こはた)の浄妙寺(じょうみょうじ)の東に営まれた。浄妙寺(現宇治市立木幡小学校)の東の「ジョウメンジ(「浄妙寺」の転訛(てんか)したもの)墓」と通称されていた茶畑の先、墓地の東のフェンスで囲まれた某修道院の敷地の一画あたりであろう。 なお、宮内庁が治定(じじょう)している「宇治陵(うじのみささぎ)」は、明治十年(一八七七)に藤原氏出身の温子(おんし)・穏子(おんし)・安子(あんし)・詮子(せんし)・彰子(しょうし)など皇室関係者十七陵三墓を定め、後に三十七箇所に陵域を広げたものであるが、この地は宇治古墳群でもあり、多くは古墳時代後期(六世紀)の円墳(えんぷん)である。摂関期(せっかんき)の墳墓(ふんぼ)は他所で火葬した遺骨を埋葬しただけのものであるから、大きな墳丘(ふんきゅう)は必要ない。62号墓が道長の墓などと書いてある本もあるようだが、まったく根拠のないものである。