いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
法成寺の造営
寛仁三年七月十七日、道長は土御門第(つちみかどてい)の東に丈六(じょうろく)の阿弥陀像と四天王像(してんのうぞう)を造立することを発願(ほつがん)し、新堂の木造始(こづくりはじめ)を行なった。これが後に法成寺につながる。 治安二年(一〇二二)七月に無量寿院(むりょうじゅいん)に密教の大日如来像(だいにちにょらいぞう)を本尊とする金堂(こんどう)と五大尊像(ごだいそんぞう)を本尊とする五大堂(ごだいどう)が竣工し、寺号(じごう)は法成寺(ほうじょうじ)と改定された(『権記』)。 法成寺金堂供養は、天皇・東宮・三后が参列して、七月十四日に行なわれた(『小右記』『権記』)。後一条は中央の間で中尊(ちゅうそん)に向かって拝礼したが、その時、道長は階の腋(わき)の地下(じげ)で涕泣(ていきゅう)した。現世の栄耀(えいよう)をきわめた道長は、これで臨終正念(りんじゅうしょうねん)を迎える場も準備し終えることができ、来世についても心配の種はなくなった、はずであった。 道長は「禅閤(ぜんこう)」などと呼ばれて、世俗の政治に関わり続けた。出家した無位無官の臣下が政治に関わるという、一見すると矛盾する事態が、道長と頼通、道長と彰子、道長と後一条との関係を通じて、無理なく世に納得されていた。こういった先例が、後の院政や平清盛(きよもり)政権につながることになる(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
道長子女の運命
万寿(まんじゅ)四年(一〇二七)は、道長にとって最後の年となる。この年は正月から病悩(びょうのう)していた。 四月に入ると、二女の姸子に病魔が襲いかかった。加えて五月十五日には、出家(しゅっけ)していた三男(明子所生)の顕信(あきのぶ)が、比叡山(ひえいざん)の無動寺(むどうじ)において死去したという報が届いた(『小右記』)。 六月四日には、道長も飲食を受けず、衰弱が甚しくなった。姸子の方も、七月十九日には手足が腫(は)れ、八月五日には不覚(ふかく、人事不省〈じんじふせい〉)となった。顕光の霊も加わって、九月四日に危篤(きとく)に陥り、九月十四日に出家した後に死去した。三十四歳であった。