フェイクニュースに騙されないために ── 読者の技量、そして生じる責任
増える一般紙の有料記事、無料の記事が読めなくなったら?
去年の後半から無料で読める記事が急速に減って来ている。各新聞社がついに紙の販売では立ち行かなくなり、本気でインターネットに向かおうとしているからだ。先頭を走っているのは日経だが、かつて、インターネットだからと無料で提供していた記事が無料でなくなってきており、全国紙が出している「鍵付き」の記事(有料記事)がどんどん増えている。課金というビジネスモデルを紙からインターネットに移植していくぞという予兆だ。 一般紙の出す記事が有料でしか読めなくなった場合、想像だが、2つの可能性がある。 一つは、かつての時代に戻るだろう。つまり、誰も新聞を読まなくなるということだ。いまは、実は新聞は読まれている時代だ。紙の新聞はとっていないが、ネットを通じて新聞記事をネットのニュースを通じて読んでいる。無料の記事はゼロになることはないだろうが、少なくとも減っていく。 もう一つは、「こんなことをメディアが報じているよ」ということを受けて伝えるということだ。既存の新聞も現地の海外のニュースを引用することで報じている。そういう形でインターネットのニュースが形作られる可能性がある。
問われるネットニュース読者の技量、そして生じる責任
フェイクニュースはより巧妙になり、既存の一部のニュースメディアも相当、ウソとまではいかないが偏向したファクトを紹介するように変わりつつある。私は、問われるのは読者の技量だと思っている。読者のその技量が低いと、既存のメディアも乗じて、ファクトを疎かにし、きちんと報道しなくなるだろう。その分岐点にきている。 メディア自身が、確かな情報を流す責任をずっと問われてきた。そこに変化はない。ネットニュースの読者・視聴者の情報消費者の技量、社会的な責任が問われ始めている。これが決定的な変化だ。ジャーナリズムの側は、市民に対して「新聞というのはこう読むべきだ」ということを説明しなければならない。これまでやらずに済んできたが、これからは違う。 かつては、マスコミ情報は一方通行で、情報を発信するのはマスコミ側、市民はそれを受け取るという役割だった。しかし、ネット社会になって、市民の側は「情報の真偽を見分ける」という、かつて問われなかったことが問われ、急激に責任が重くなってきた。 なぜなら、コンテンツの流通は、相当部分を市民が担っている。記事が読まれるかどうかは、市民が決めるようになり、カギを握っているからだ。いい記事が広まるのも悪い記事が広まるのも、市民の側に相当以上に責任がある。 それは、真偽が確認されない以上、ネットに流さない、流したくても流さないという、常にジャーナリストに問われていた責任だ。ネット社会になって市民は力を持った。力を持つということは、責任が生じるということだ。 かつてははっきりとジャーナリズムの側と受け手の側と、お互いまったく違う責任のもとで情報を消費していたが、その範囲があいまいになり、重なってきている。その認識がお互いにあるのだろうかという問題提起をしてきた。 いまや流通を担うネットニュースが権威になり、強まっている。かつてNHKが言っていた、朝日新聞に書いていたという同じような権威をネットニュースが持ち始めているということだ。フェイクニュースは言い過ぎだが、偏った“ニュース”や個人のブログが報道と同じレベルで、同じプラットフォームで配信されている。これは非常に危険であることは間違いない。 ネットニュースは、個人のブログも新聞社の記事も分け隔てなく紹介する。ネットニュースがトップに取り上げた瞬間、個人のブログも新聞社の記事も同じ価値で読んでしまう人が圧倒的に多い。それが圧倒的だ。