「両手をぐるぐる巻きにして、朝から晩までボールを…」ゴルフ界の伝説・青木功“鹿野山特訓”に王貞治が立ち会っていた
ゴルフ界のレジェンド・青木功氏。生涯のライバル・ジャンボ尾崎こと尾崎将司氏とはお互いの名字を合わせて「AO」と呼ばれ、ゴルフ史に残るいくつもの名勝負を繰り広げた。尾崎氏との対決や、王貞治氏からかけられた言葉など、プロとしての道のりを振り返る。 【画像】鹿野山特訓”に立ち会っていた王貞治氏 ◆◆◆
口癖のように「しゃんめえ」と
練習熱心な青木は立ちどころに上達し、19歳の時にプロテストを受けたが不合格。努力が報われず酒とギャンブルに溺れかけたが、競輪で稼いで受験料を工面した2度目のテストに通った。この時、青木は22歳。合格者の中でスコアは下から2番目だった。足掛け4年、執念で勝ち取ったプロ入りだった。 「将来の道がようやく開き、家族に喜んでもらえると思うとこみあげてくるものがあったよ。ところが、ゴルフで飯を食うのはそんなに甘いものじゃない。当時は今のように頻繁に試合があるわけではなく、高額賞金のトーナメントがあっても、予選を突破するのもひと苦労だ。いいところまで行っても、大事なところでフック(左に曲がる球。その逆がスライス)が出て何度もチャンスを逃してしまった。口癖のように『しゃんめえ(しょうがない)』と言って強がっていたけど、自分には才能がないんじゃないかと真剣に悩んだ。先行きに不安を抱いて、得意だったボウリングのプロに転向しようと考えたこともある。 プロゴルファーになると、今まで1万円程度だった給料が2万5000円になって生活が楽になった。それだけで満足していたら、先輩に『馬鹿野郎、プロというのは試合に出なきゃいけないんだ』と言われて目が覚めた。今みたいなマシンはなかったけど自重トレーニングに励んだり、持久力をつけるために走り込んだ」 そうして、ようやくプロ7年目に手にした勝利が関東プロだった。 「初日が69、2日目と3日目が66で、最終日が72の15アンダーで回った。2位以下に大差をつけて優勝することができたんだ。続けてよかった。よーし、もっとやろう、という気持ちになったよ。自分に才能があることを証明できたことが誇らしく思えたし、もっと勝てるという欲も出た」 だが、この71年の9月、ライバルの尾崎は青木に3カ月遅れて日本プロで初優勝をあげ、この年だけで5勝を挙げる活躍を見せる。前年にプロゴルファーに転向したばかりの、2年目の新人である。 翌72年の直接対決で勝利した青木だったが、このままではいけないと鹿野山での特訓に挑んだ。73年の正月明けだった。 「もっともっと勝つために、自分の球筋を徹底的に変えようと思った。きっかけは70年、71年と2年連続で日本オープンの優勝を逃したことだ。いずれも一度はトップに躍り出たのに、最終日の土壇場で思いがけない大フックが出てOBを叩いてしまった。 私はゴルフをはじめた頃からドロー・ヒッター(ボールを右に打ち出した後、左にフックさせる球筋を基本とする選手。その逆がフェード・ヒッター)で、若さに任せてクラブを振れば、飛距離では誰にも負けない自信があった。ところが、あまりにも曲がり幅が大きすぎて、右の林から左の林まで飛んで行ってしまうことがしばしばあったんだ。これだけは絶対直さなきゃいけないと思って、我孫子中学の同級生でもある鷹巣南雄(鹿野山ゴルフ倶楽部所属のプロゴルファー)に頼んで、合宿することにしたんだよ。 鷹巣は『この寒い中で本当にやるのか?』と呆れていたけど、思い立ったらやらなきゃ気が済まないのが私の性分。『寒くなんかねえよ。俺は絶対にスライスを打つんだ』と言って、毎日、朝からみっちり球を打ちこんだ。 ドローからフェードに変わったところで、トーナメントに勝てる保証はない。それに、もしスイングを崩せば、選手生命を失うことにもなりかねない。それでも、悔しい敗北を立て続けに味わった私には、それ以外の方法が思いつかなかったんだ」