箱根駅伝4連覇を果たした駒大、王者のマインドは引き継がれる。「部員全員が勝ちたい思いを共有し、誰が変わっても戦える状態に」
まもなく第100回箱根駅伝が開催されます。昨年まではコロナの影響で叶わなかった沿道での応援も、今年から解禁になりました。これまでさまざまなドラマが繰り広げられてきた箱根駅伝。記念すべき第100回を前に、これまでの箱根駅伝でのエピソードを紹介します。今回は、2002~05年に4連覇を果たした駒澤大学のエピソードです。当時の主将、田中宏樹選手は「4連覇は駒大がチームとして成し遂げたことで、たまたま僕が走ったというだけ」と言っていて――。 【表】駒大4連覇(2002~05年)に貢献した主な選手 * * * * * * * ◆去年までは先輩に、今年は後輩に 2005年1月、箱根駅伝で駒大が史上5校目の4連覇を成し遂げた直後のことだ。主将として祝勝会で壇上に立った田中宏樹は、快挙に沸く約1000人のOBたちを前に、こう語ったことを鮮明に覚えている。 「去年までは先輩方に勝たせていただきました。そして今年は、後輩に勝たせてもらいました」。用意していたわけではなく自然に、心の底から出た言葉だった。 田中は箱根に4度出場し、その全ての大会で頂点に立った希有な選手だ。4連覇した駒大では田中と塩川雄也の2人だけ。99回の箱根の歴史を見渡しても、4連覇以上を果たした日大、中大(6連覇)、日体大(5連覇)、順大、青学大を合わせた6校で14人しかいない快挙だ。 だが、田中はその事実を走り終えてしばらくしてから知った。両親が教えてくれたが、そう聞いてもそのこと自体、それほど重要とも思わなかった。 「3年と4年で4区を走らせてもらい、2年連続で区間賞を獲得しました。これは僕の記録なのでうれしかった。でも、4連覇は駒大がチームとして成し遂げたことで、たまたま僕が走ったというだけ。駒大の力だと思います」。 当時からそう思っていたから、祝勝会で先輩、後輩への感謝が口をついたのだと考えている。
◆先輩が主導して指導 駒大は1995年に大八木弘明がコーチに就任。2000年に初の総合優勝を果たした伸び盛りのチームだった。 連覇を狙った01年は順大に敗れて準優勝。田中が岡山・倉敷高から駒大に進んだのは、その直後の春だ。 高校時代は無名の存在だったが、ロードで単独走を得意としていた。そして、当時の駒大は駅伝強化のために、そんなタイプの選手が集まっていた。「チーム全体にまた箱根で勝ちたいという空気が充満していた」と田中は振り返る。 指導に情熱がほとばしる大八木コーチのもと、各学年や寮の各部屋にリーダーがいた。誰もが優勝の喜びをまた味わうために、普段は仲が良くても、練習から目の色が変わった。 練習で気持ちが入らない様子が少しでもあると、コーチよりも先に先輩が主導してミーティングを開き、「こんなんじゃだめだ」と後輩を叱咤した。 寮の1階にあった監督室からは、誰かが叱責を受ける声が聞こえたこともあったが、重苦しい雰囲気を部屋に持ち帰る選手はいなかった。全ては強くなるために。指導者も選手もそれを当たり前と捉え、チームとして一つの方向を向いていた。 02年に2度目の総合優勝。引き締まったチームの雰囲気は伝統として受け継がれた。04年に3連覇しても、チームの空気がたるむことも、連覇へのプレッシャーに苦しむこともなかった。田中も、先輩がしてくれたことを、後輩にするように心がけた。
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