松島トモ子「母を100歳まで自宅介護。見送った後、70何年分の〈思い出〉を整理し、77歳で初の引っ越し。ようやく見つけた私の城」
年を重ねてからの住み替えは、気力と体力が必要です。長年の在宅介護を終え、70代後半で引っ越しを決意した松島トモ子さんに、母との思い出の詰まった一軒家を手放したわけを聞きました。(構成:平林理恵 撮影:宮崎貢司) 【写真】「買ったばかりの新しいベッドから落ちて脳震盪を起こしちゃった」と語る松島さん * * * * * * * ◆主なき家は廃墟だ、と感じて この春、住み慣れた目黒の一戸建ての実家を手放して、マンションに移りました。77歳にして人生で初めての引っ越しです。決意した当初は、チェーホフの『桜の園』を思い浮かべながら、自分を悲劇のヒロインみたいに思ってね。 家を出たらしばらくは悲しいんだろうな、と想像していたのですが、やってみたらなんのなんの。新しい世界が広がったみたいで、毎日がすごく楽しいです。 引っ越しを決意したのは、5年5ヵ月の間自宅で介護していた母を看取ったことがとても大きかったと思います。 私は満洲の生まれ。父は私の顔も見ないまま戦地で病死し、母は乳飲み子だった私を命懸けで日本に連れ帰ってくれたのです。そして住むことになったのが、目黒の母の実家でした。 大きなお家で、何回か建て替えましたけれど、あの家の主役は母。1階には40畳ほどの稽古場があって、そこに50人くらいのお客様を招いてしょっちゅうパーティーをしていました。 祖父は商社勤めで海外生活が長く社交の場に慣れていたし、母もそういうことがすごく好きで、おもてなしも上手。おしゃれできれいで、私の自慢でした。 私が4歳で子役として仕事を始めてからは、常にそばにいて私を支え、女手一つで芸能界の猛者たちと交渉する才覚も豪快さもあった。とても肝の据わった人で、私は母を尊敬していたし憧れてもいました。
そんな母がレビー小体型認知症を発症したのは、95歳のときです。自慢の母が突然、暴君となったことを私は受け止めきれなくて、「親子心中するしかない」と追い詰められたことも。 母が施設に入ることを断固拒否したため、デイサービスや訪問看護の看護師さん、訪問診療のお医者さま、ヘルパーさんなどみなさんの力を借りながら、95歳から100歳8ヵ月まで自宅で介護をしました。 母が亡くなったのは、2021年の10月4日。そしたら翌日から誰も来なくなっちゃった。9時に必ず「ピンポン」が鳴って、看護師さんやヘルパーさんがいらしていたのに……。そのとき思い知らされたのは、やはりこの家の主は母だったということです。主なきこの家は廃墟だ。母がいないとこの家は家じゃないんだ。それがどうにも寂しくて。 あれは確か、コンサートの初日を控えた前の晩のことです。稽古場でお稽古を終えると、スタッフは17時か18時には帰ってしまう。「明日10時にタクシーがお迎えに上がります」と言われ、大きな家にひとりでいる不安と寂しさから、夜逃げしようかと思いました。 3歳から舞台に立っている私ですが、こんな状態が続けば、たくさんのお客様をニッコリ迎えるのは無理になる。 たまらなくなって、長年お世話になっている心療内科の先生にお話ししたのです。すると、先代から診ていただいている医師が、「あの家にずっといるのもいいけれど、ちょっとでも動くつもりがあるなら、70代のうちに引っ越しなさい。80になると判断力が鈍ります」と。 そのとき私は77歳。現役の間は稽古場のある家に住み続けたいと思っていたけれど、心のことを考えると、そんなこと言っている場合じゃないような気がしました。 稽古場は別の場所を借りればすむことだから。こうして77歳での初めての引っ越しへ向けて動き出したのです。
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