損得をもとにした「抑止論」の上に成り立つ平和の危うい側面─そこに「ひとの暮らし」は存在しない
※本記事は『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子)の抜粋です。 【画像】中山智香子著『経済学の堕落を撃つ』
戦略研究から抑止論へ
ゲームを理論化するという新奇さのため、経済学界からはしばらく反応がなかったが、冷戦時代に入った1950年代のアメリカが、戦略を立てるために優秀な経済学者や政治学者らをランド研究所などに結集させ、理論的発展の制度的基盤が整えられた。集まったトップ・エリートたちは、まるでゲームをするように、対立と協力の最適解を考える手法にのめり込み、モデルを洗練させていった。こうしてゲーム理論は戦略研究として、大いに発展を遂げることになった。 二人のホモ・エコノミクスという仮定は、超大国が互いの出方を探り合い、武力攻撃に及んだ場合の結果的損失を見通して、現在の軍事行動を行う際の合理的な意思決定の分析に活かされた。ジョン・ナッシュやトマス・シェリングらの貢献により、最適な戦略は戦争による損失の回避であることが明らかにされ、やがてこれが抑止の論理として定着した。もっとも、合理的判断はときに「囚人のジレンマ」と呼ばれる事例のように、かえって望ましくない結果をもたらすことも明らかにされ、ジレンマが繰り返される場合、相手の出方に合わせて協力し合う方が利得を高くできるという実験結果も示された。 武力攻撃がなされないという意味での戦争回避が平和であるとすれば、自由主義経済学から派生してアルゴリズムの論理を組み込んだゲーム理論も平和に貢献したといえるだろう。対立する主体の双方が、持てる武力による脅威を誇示し合い、これをもとに武力攻撃を踏みとどまるという抑止の考え方がゲーム理論から導出され、国防や安全保障の典型的な論理となったからだ。 しかし、その名のもとにおける示威のための軍備増強までをも平和に含めるとすれば、もはやそれは錯誤以外のなにものでもなく、平和そのものの概念が変質していると言うしかないだろう。平和とは人が生きていくための大前提なのであって、科学や論理によって手続きの正しさを証明される類のものではないはずだ。 経済学は、科学たることを標榜して公正さ、正義など倫理的側面を捨象したにもかかわらず、あるいはそれゆえに、科学的に合理的な、アルゴリズム的な「平和」の理念の確立に、アメリカの地において貢献した。新興諸国の筆頭的存在として国際社会に躍り出たアメリカは、科学を味方につけることにより、皮肉なことに自由主義を「ひとの暮らし」から遠いものにしてしまう、その大きな原動力となったのだ。