戦闘機の護衛なしで米艦隊を攻撃!重巡を撃沈し「ケ号作戦」を成功に導く【レンネル島沖海戦】
日本海軍がガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)を準備している時、ソロモン諸島海域で日米両軍の海戦が勃発する。レンネル島沖海戦と呼ばれるこの戦いは、アメリカ軍首脳陣が大きな衝撃を受ける結果となった。 昭和18年(1943)1月29日、日本海軍はガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)を準備中であった。この日、翌30日に実施予定のケ号作戦のため、ニューブリテン島のラバウルやバラレ島、ショートランド泊地から一式陸上攻撃機や二式飛行艇が、偵察に出ていた。 そのうちの1機が、ガダルカナル島に接近中と思われるアメリカ艦隊の姿を捉えた。これはガダルカナル島に向かう輸送船団を護衛していたアメリカ海軍太平洋艦隊・第18任務部隊であった。指揮を執っていたのはロバート・C・ギッフェン少将で、彼は大西洋から太平洋に転属したばかりで、日本軍を過小評価していたと言われている。 日本側は18任務隊の動きを捉えたが、攻撃隊が敵に接触するのが宵闇(よいやみ)になるように、出撃の時間をあえて遅らせた。まず12時35分にラバウルの第705海軍航空隊から、一式陸攻16機が発進した。10分後には第701海軍航空隊の九六式陸上攻撃機22機が、ラバウル基地を後にする。うちの7機は、夜間攻撃用の装備を搭載した照明隊であった。 同じ頃に18任務部隊の方は、19時に4隻の駆逐艦と合流する予定だったため、足の遅い護衛空母を別行動させている。そして日中には任務隊上空を守っていたF4Fワイルドキャット戦闘機を、日暮れが近づいたため後方の空母部隊に帰投させてしまう。 そして護衛戦闘機がいなくなった日没直後の17時19分、705航空隊が18任務隊の上空に到着し、浮遊目標灯を投下。続いて攻撃を開始する。しかし命中弾はなく、1機が撃墜されてしまう。19時40分になると701航空隊が現場に到着し、照明弾を目標に魚雷による攻撃を始めた。最初の攻撃で、重巡ルイビルに魚雷が命中するも不発に終わる。続いて旗艦であった重巡ウイチタにも魚雷が当たるが、またもや不発であった。 そんな中、701航空隊の指揮官・檜貝襄治(ひがいじょうじ)少佐が搭乗していた陸攻が、対空砲により被弾する。ところが少佐機はそのまま墜落せず、重巡シカゴに体当たりし、炎上させた。日没後の暗い海では、炎上する艦は格好の標的となり、続く攻撃隊は炎上するシカゴに向かって魚雷を撃ち込む。うち2発がシカゴに命中し大破、航行不能となった。これを受けギッフェン少将は撤退を命じ、ルイビルがシカゴを曳航(えいこう)して戦場を離脱。 この攻撃で日本側の喪失は、指揮官機を含む陸攻3機だけであった。日本側の戦果報告は戦艦1轟沈、巡洋艦2隻撃沈、そのほかに戦艦や巡洋艦に魚雷命中という、過大なものになってしまう。後に「檜貝少佐が存命なら、このような報告はなかった」と言われた。 日本軍は退却する18任務部隊を飛行艇で監視していたが、一時見失ってしまう。深夜になり一式陸攻が再発見したが、夜間攻撃は見送られた。翌30日早朝、日本軍は再び18任務隊を捕捉する。そして10時15分に、ブカ島の751海軍航空隊に所属する一式陸攻11機が発進。14時6分に目的上空に達した。 アメリカ側は18任務隊を護衛するため、空母エンタープライズから直掩機10機が飛来し、日本軍の攻撃を阻止しようとした。だが751航空隊11機は果敢に魚雷を放ち、曳航中だったシカゴに4本を命中させ、ついに撃沈する。さらに1本の魚雷が駆逐艦ラ・ヴァレットに命中、これを大破する。日本側はこの攻撃により、7機の一式陸攻を失っている。 沈没したシカゴには、極秘新兵器「近接信管(VT信管)」弾が搭載されていた。加えてエンタープライズから10機の直掩機が護衛に付いていたにもかかわらず、シカゴが撃沈されたことにアメリカ側は強い衝撃を受けた。そのため、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの強い要請で、シカゴの沈没は海軍部外へは秘匿されることとなった。 一方の日本軍は、レンネル島沖海戦によりアメリカ軍巡洋艦部隊が北上するのを阻止できた。その結果、ガダルカナル島撤退作戦を察知されることなく、作戦開始日が1日遅れたが予想外の大成功につながったのである。
野田 伊豆守