愛犬10年物語(6)老夫婦と老プードルでアメリカ横断 文豪の旅たどる
旅の終着点は、かつて暮らしていたニューヨークのマンハッタン。住んでいた高層アパートを訪ねると、ドアマンに「ミセス・オガワ?」と話しかけられた。当時32歳だった彼も今や52歳だったが、よく覚えていてくれた。まだアメリカでは珍しかった柴犬と暮らしていた小川夫妻は、やはり「犬を連れた日本人」として、強く印象に残っていたのだろう。
アメリカを、いや、世界を代表する都市公園のセントラルパークは、犬の散歩のメッカだとも言える。そこでも、ダンディとミミは人気者だった。「地元の人や観光客が、わーっと寄って来ました。その中で特に印象に残ったのは3歳半と6歳と言っていた兄妹やな。2頭とずいぶん長いこと遊んでおりましたよ、撫でたり引っ張ったりして(笑)。最後にはだいぶ慣れて、自分たちよりもずっと大きなダンディのリードを持たせてくれ言うてましたわ」 2016年の大統領選後、一大観光地と化しているトランプ・タワーの前でもダンディたちに注目が集まった。観光客らのカメラはビルの方向よりも、ダンディとミミに向けられた。
犬たちに「ありがとさん」
『チャーリーとの旅』でスタインベックが描く半世紀前のアメリカには、プラスチックの食器や広告に囲まれた消費社会に人々が埋もれて暮らしているような、現代とそう変わらない日常風景が広がっていた。スタインベックが旅をした1960年当時はケネディとニクソンが大統領選を戦っていたが、今と様相が異なることと言えば、民主党支持者のスタインベックと共和党支持者の姉が実家で直接顔を合わせた際に、口汚く政治的な口論をしたくだりくらいだ(今は同じ口論を見知らぬ者同士がインターネット上で行っている)。
小川夫妻は2か月弱の旅行を通じて、アメリカの開放的な旅の空の下、犬たちとの穏やかな日常を楽しむことができた。特に危ない目にも合わず、大変だったことと言えば、帰りの検疫手続きで少しバタバタしたくらいだ。ダンディとミミにしても、大勢の人たちに可愛いがられ、褒められ、まんざらでもなかったであろう。犬は「家族と一緒にいる」ことに最も幸せを感じる生き物だ。ダンディにとっては、片時も家族みんなと離れることがなかった2か月は、それまでの10年間で最も幸せな日々だったに違いない。 「あっと言う間でした。旅の土産話のようなものもない、私たちだけが分かるような思い出ばかりやけど、まあまあ、犬にありがとさんやね」 丈三さんのそんな“総括”を聞いて、僕は『チャーリーとの旅』の中で、スタインベックが綴った次の言葉を思い出した。「私がこの本の中に書くことは一面の真実だろう。しかし私以外の誰かが同じ道を辿れば、また別のやり方で世界を捉え直すに違いない」