『市民ケーン』映画史に輝く傑作を手がけた、若き天才クリエイターの映画術
なぜ『市民ケーン』は突出しているのか
巨額の富に振り回され、さまざまなものを失い続ける人生のなかで、彼にただ一つ残されていたのは、自分の力で生きている実感のあった、あの雪のなかでの幸せな記憶だけなのではないか。だからこそケーンは、その空虚さを埋めるために財力を投じるしかなかったのだろう。おびただしい数の美術品が映し出されるシーンは、ケーンが味わっていた喪失そのものを、逆説的に表現していると考えられる。 世の中の大多数の人は、ケーンのような財力を持っているわけではない。しかし程度の差こそあれ、彼に共感できる部分があるかもしれない。子どもたちは、自分のやりたいように自由に遊ぶ毎日を送るべきだが、そうした幸せな時代を過ごして大人になった人でも、長じるにつれて自由を失っていく。社会の都合に振り回されながら、人は自分の意志で生きているという実感を失いがちになるのである。 オーソン・ウェルズは、そういう、自分をコントロールしようとする社会の枠組みにこそ抗ってきた人物だ。アートや娯楽の世界に身を置きながら、さらにその枠にはまらない作品を生み出そうと思案し、これまでの枠を破壊することで、自身が自由な存在であることを作品によって表現してきた。そして『市民ケーン』では、挑戦的な物語と演出によって、そんなウェルズのイマジネーションが爆発し、自由への欲求が最も強く反映される一作となった。 自分の人生を自分自身がコントロールし、自由を手にすることで生きる実感を得ること。それは人生における一つの真理であり、多くの人々にとっても潜在的な目標である。ケーンという不自由な人物を描くことを通して、その核心へと到達し得た本作は、イギリスの名作文学『クリスマス・キャロル』や、アメリカの名作文学『グレート・ギャツビー』同様、文学的な意味においても、紛れもなく重要な映画作品だといえるだろう。 このように、イマジネーションや表現手法、物語など、あらゆる点で突出しているという意味において、『市民ケーン』を凌駕する作品を挙げるのはなかなか困難なことだ。本作を「史上最高の映画」だとする意見には人によって賛否はあるだろうが、本作を分析すれば、少なくともこの作品に対する評価には確固とした理由があり、決して過大評価ではないということが理解できるのである。 文:小野寺系 映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。 Twitter:@kmovie (c)Photofest / Getty Images
小野寺系