『市民ケーン』映画史に輝く傑作を手がけた、若き天才クリエイターの映画術
ウェルズのイマジネーションを支えた撮影
このように補強されていった、ウェルズの美学や娯楽的な演出へのイマジネーション。それを実際の表現に落とし込んだのが、撮影監督のグレッグ・トーランドだ。彼はすでに、ジョン・フォードやハワード・ホークス、ウィリアム・ワイラーやレオ・マッケリーなど、偉大な監督たちの作品を次々に手がけていた名手だった。 驚嘆するのは、このトーランドによる、「ディープフォーカス」の手法である。これは、撮影の際に被写界深度を深くすることによって、映像における前景と後景両方にピントを合わせるというもの。これが活かされた代表的な場面が、下宿屋の外でソリ遊びをする子ども時代のケーンと、下宿屋の中で話し合う両親や後見人を同時に映した、幻惑的な演出だ。 他にも、ワンカットによる一面の雪景色から室内へのカメラの移動や、冒頭でのスノードームの中から室内を映した構図、眺めている写真が動き出し映像へと変化することで場面転換するなど、魔法のような演出、カメラワークが頻出し、映像表現を変革させるほどのインパクトを残している。その後、オーソン・ウェルズは監督作『黒い罠』(1958)にて、前人未到といえる高難度のワンカット撮影を成功させているように、映像の変革者としての役割を担っていく。 本作が圧倒的なのは、映像面ばかりではない。脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツは、さまざまな面で類を見ない挑戦的な物語を書き上げている。マンキーウィッツが『市民ケーン』の物語を生み出し、ウェルズが監督することが決まる経緯は、デヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』(2020)にて、フィクションを織り交ぜながら詳細に描かれている。
孤独に老いるケーン
オーソン・ウェルズ演じる『市民ケーン』の主人公は、新聞社やラジオ局、その他多くの事業を展開する、巨大なコングロマリット(複合企業)を所有する大富豪チャールズ・フォスター・ケーン。彼は老いてのち壮大な邸宅で、「薔薇の蕾(バラのつぼみ)」という謎の言葉を遺し息をひきとる。新聞記者トンプソン(ウィリアム・アランド)は、そんな大物ケーンの実像を捉える記事を書くべく、「薔薇の蕾」の謎を解こうと関係者たちへの取材を始める。その証言から、ケーンの人生の重要な場面が回想のかたちで映し出されていくというのが、本作の基本的な構成である。 ケーンの人生は、母親が下宿代として手に入れた金鉱の権利書に莫大な価値があることが分かったことで、子ども時代に激変することになる。大人になって資産を受け継いだケーンは、その財力で新聞社「インクワイラー」を買収するばかりか、ライバル紙の記者たちを引き抜くことで、業界の大物となっていく。自分の力を示し社会に爪痕を残そうと理想に燃え、政界への進出をも狙おうとする若きケーンだったが、不倫スキャンダルで虚飾が剥がされ、妻子が自分のもとを去ると、傲慢な態度を見せるようになっていく。 新聞社の記者であり、ケーンの親友でもあったリーランド(ジョゼフ・コットン)もまた、ケーンと言い争ったのち、ある劇評での騒動を機に袂を分かつこととなる。ケーンは、巨額を投じて建設したオペラハウスでの上演に、彼の愛人だった妻スーザン(ドロシー・カミンゴア)を実力不足にもかかわらず主演させたが、その舞台の評を担当していたのがリーランドだったのだ。 リーランドは、ケーンとの言い争いのなかで、「人の心が分かってない」とケーンに指摘する。次第に尊大になり、人を思い通りに動かそうとするようになってしまったケーンの姿を表現するため、ここでは印象的な仰角の構図が採用されている。このシーンは、カメラを被写体の下に置くために、わざわざ床に穴を開け、撮影者がそこに潜り込むまでして撮っているところが面白い。 最初の妻と息子、親友、そして二番目の妻など、ケーンの周囲からは次々に親しい人がいなくなっていく。晩年、彼は豪奢を極めたフロリダの「ザナドゥ」での生活のなかで、ひたすら芸術品や動物を集め、孤独な心を埋めようとするのだった。そして、「薔薇の蕾」という言葉を遺し、息を引き取るのである。