「母と弟の笑顔、もっと見たかった」その日は突然…阪神・淡路大震災30年、追悼式典で思いを語る
阪神・淡路大震災から30年を迎える1月17日に神戸・東遊園地(神戸市中央区)で開かれる追悼式典で、遺族代表として追悼の言葉を述べる神戸市垂水区の小学校教諭・長谷川元気さん(38)が9日、神戸市内で会見し、震災で犠牲になった家族への思いなどを語った。 ありし日の母と弟…もう今は会えない 当時小学2年で8歳だった長谷川さんは震災当日、神戸市東灘区の木造2階建てアパートの1階で、家族5人で寝ていた。トイレに行くために起きて、また寝床に戻ろうとした時に下から突き上げられた。天井が崩れ落ちた。 母の規子さん(当時34歳)と弟の翔人ちゃん(当時1歳)が、洋服ダンスの下敷きになり亡くなった。 規子さんと翔人ちゃんの安否が気になる。 1歳下のもう1人の弟と、近所の公園のベンチで待ち続けた。陽が暮れるころ「あかんかった」。父から2人の死を聞かされ、泣き崩れた。「もっと母の手伝いをしたかった。もっと翔人と一緒に遊んであげたかった。2人の笑顔をもっと見たかった」と悔しがった。 そして、「自分の大切な人は、当たり前のようにそばに居てくれているのではない。ある日突然、居なくなってしまう」。やるせない気持ちになった。 当時、寄り添ってくれた小学校の先生の存在が大きかった。母親のいない長谷川さんに「大丈夫だよ。しっかりやっていけるから」と励ましてくれた、その優しさが忘れられない。それが教師の道に進むきっかけになった。 長谷川さんは、震災の教訓を後世に伝えるため、2014年から震災を語り継ぐグループ「語り部KOBE1995」に参加。今は代表として、全国で思いを伝えている。 しかし、懸念もある。「30年の節目、震災を語り継ぐには良い機会だが、31年、32年となり、経験や教訓を振り返り、引き継ぐ機会や追悼行事が続いていくのかわからない」と話す。 震災を知らない世代に向けては、「まず、神戸で大地震が起きたことを知ってほしい。家族を失った人々が、悲しみを抱えて、この30年を懸命に生きてきたことを伝えたい。また今後、発生の確率が高まる南海トラフ巨大地震への備えも含めて、さまざまな思いを伝えられる貴重な機会だ」と語った。 能登半島地震から1年経った今年の元日、長谷川さんはいたたまれない気持ちになった。「また(地震が)起きるのではないか」。あの日以来、単なる元日ではなくなった。 被災地は阪神・淡路や東日本だけではない。「能登半島で日常生活を取り戻せず、つらい日々を送る人々の気持ちを忘れてはいけない」。30年目の“1.17”を前に誓う。
ラジオ関西