観光地はなぜ住みづらいのか? 「行きたい街」と「住みたい街」の違いについて考える
観光地の裏に潜む真実
このような規定不可能性は、京都を例に挙げるとより具体的に理解できる。 京都は「古都」や「観光の町」として知られているが、実際には2021年の京都市の産業構成比では製造業が24.2%と圧倒的な割合を占めている。また、人口に対する学生数の割合は6.3%で、全国平均の2.3%を大きく上回り、全国1位だ。大学進学率も67.8%(全国平均55.8%)で、こちらも全国1位となっている。 このように、観光地としての側面が強調されがちな京都だが、居住者にとっての京都は、むしろ日常の営みのなかに存在している。 京都の実情は、観光地から少し離れて歩くことで理解できる。例えば、河原町のような繁華街や八坂神社、清水寺周辺は常に観光客であふれ、オーバーツーリズム(観光公害)の深刻さを感じさせる。しかし、応仁(おうにん)の乱の発生地として知られる御靈神社(上御霊神社)や、大石内蔵助が隠居していたことで知られる山科に行くと、まったく異なる景色が広がっている。このような 「ふたつの顔」 を持つ町の姿は、まさに規定不可能性の好例だ。観光地として広まっている表の顔の裏には、製造業や学術といった強固な産業基盤が存在し、歴史を静かに伝える生活空間が広がっている。 「行きたい街」と「住みたい街」の違いは、こうした町の複層的な姿への理解の差にあるのかもしれない。
観光地からの脱却
では、「住みたい街」はどのように形成されるのだろうか。いくつかの事例を挙げてみよう。 長野県の北東に位置する小布施町は、人口約1万人の小さな町でありながら、年間100万人以上の観光客が訪れる。この町の特徴は、 「小布施は観光用に作られた街ではありません」 と宣言していることだ。江戸時代からの町並みを保存し、現代的な要素とも調和させている。栗菓子や北斎館など、地域の特色ある文化を大切にしている。住民が主体となって町並みの保存や地域文化の継承に取り組んでおり、それが住民の誇りと愛着につながっている。 岡山県の北東端に位置する西粟倉村は、独自の施策で「行きたい街」を「住みたい街」へと転換した事例だ。この村は人口約1400人の小さな村で、自然を楽しむために「行きたい」と考えることはあっても、「住みたい」とは想像しづらい場所だ。しかし、この村では人口の約15%が移住者である。 この村では「百年の森林構想」という長期的な森林管理計画を住民主導で実施し、地域資源を活用したローカルベンチャーの起業を支援している。また、移住者と地元住民の交流を促進する「つながる経済」を推進し、人口減少に歯止めをかけて若者の移住も増加している。 これらの事例が示すのは、「住みたい街」とは必ずしも完璧な町である必要がないということだ。小布施町が「観光用に作られた街ではありません」と宣言し、西粟倉村が森林という地域資源を百年単位で考えるのは、まさにこの考えを体現している。 つまり、「行きたい街」から「住みたい街」への転換は、その町の不完全さを受け入れ、住民自身がその個性を育む主体となることで初めて可能になる。それは、アローの不可能性定理が示唆するように、単純な社会的選択の問題を超えた地域と住民の共進化のプロセスといえるだろう。