『逃げ上手の若君』もう一人の逃げ上手の若君・護良親王の半生とは?
TVアニメ『逃げ上手の若君』第6話では、鎌倉幕府崩壊後の後処理に追われながらも新体制に対する思惑が渦巻く朝廷側の様子が描かれた。そこで登場したのが、後醍醐天皇の息子であり鎌倉幕府打倒の功労者の1人である護良(もりよし)親王だった。史実にも存在するこの「若君」もまた、北条時行に負けず劣らずの「逃げ上手」な半生を送っている。 ■朝廷側にも存在した「逃げ上手の若君」 鎌倉幕府の「逃げ上手の若君」が北条時行なら、宮方にも逃げ上手で建武政権の樹立に貢献した「若君」がいた。大塔宮護良親王である。 大塔宮は延慶元年(1308)、後醍醐天皇の皇子として誕生した。母親は民部卿三位。 幼くして仏門に入った宮は梨本門跡とも呼ばれた梶井門跡に入室した。当時の梶井門跡は法勝寺(京都市左京区・現在は廃寺)にあり「大塔宮」の名はそのシンボルだった九重塔に由来する。さらに嘉暦2年(1327)の12月6日に数え歳20歳の若さで比叡山延暦寺の最高位である天台座主に就任している。この人事には北畠親房が『神皇正統記』の中で「仏法にも御志ふかくて、むねと真言を習わせたまう」と述べたように、仏教、とりわけ密教に傾倒していた父帝・後醍醐の意向が働いていた。 『太平記』の中で親王は武芸にいそしむ仏弟子らしからぬ人物だったと評されているが、僧侶としての活動も怠りなく、元徳2年(1330)後醍醐が比叡山延暦寺に行幸した際には呪願師として弟・尊澄法親王(後の宗良親王)と共に大御堂の供養を執り行って二品に叙せられている。 元弘元年(1331)に鎌倉幕府打倒の企てが発覚すると、大塔宮は六波羅探題の目を欺くため花山院師賢を後醍醐天皇の替え玉として比叡山に迎え入れた。後に後醍醐天皇と合流して笠置山に入った大塔宮は、ほどなく楠木正成の館に移って後醍醐の支援にまわる。しかし幕府が差し向けた大群の前に笠置山が陥落して天皇も囚われてしまうと、親王にも危険が及んだ。彼の「逃げ」人生はここから始まる。 熊野を目指した護良一行ははじめ奈良の般若寺に身を隠していたが、興福寺一乗院の候人(門跡に仕えた僧形の侍者)・内侍原好尊が率いる500余騎に包囲されて逃げ場を失ってしまう。一度は自害も覚悟した親王だったが、逃げ込んだ仏殿の中に大般若経の箱が3つ置かれているのを見つけてとっさにそのひとつに飛び込んだ。経典の中に身を潜めた親王は、箱の蓋をあえて開け放ち追っ手を油断させて難を逃れる。しばらくして「やはり先程確認しなかった箱が気になる」と兵が戻ってきた時にはもう親王は別の箱に移っており、無事に逃げおおせることができたのである。 その後、親王は山伏に身をやつし、夢のお告げに従って十津川に向かう。法力で病人を癒したり、北野天神の加護で難を逃れたりと『太平記』は護良の逃避行を劇的に演出するが、この時期の護良親王の活動を示す史料は少なく、虚実を判断するのは難しい。史料が少ない部分を粉飾で補うのはフィクションのお約束だが、史実だろうが創作だろうが彼の闘志が全く衰えなかったのは事実である。 元弘3年(1333)3 月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し船上山で挙兵すると、親王はついに逃げをやめた。還俗して護良と名を改めた親王は自ら「将軍」を名乗り、幕府の大軍を向こうにまわして獅子奮迅の戦いを見せる。親王が寄せ手の御家人たちに送った令旨は、難攻不落の千早城に手を焼いて厭戦気分に陥りつつあった幕府軍の動揺を誘い、多くの武士たちが幕府から離反するきっかけを作った。 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が開いた建武政権の下で護良親王はこれまでの働きを認められて征夷大将軍に任じられた。しかしこれが彼の人生の頂点だったといえるかもしれない。ほどなく親王は武家の頂点の座を巡って足利尊氏と、後醍醐の後継者の座を巡って阿野廉子と対立する。それはやがて父・後醍醐天皇との間に隙間風となって護良親王の人生に暗雲をもたらすのである。
遠藤明子