「人類の利益」のため?故郷奪われた太平洋の人々の今 ビキニ水爆70年、目の当たりにした「終わらない」被害
第2次世界大戦中の1945年8月、米軍が広島と長崎に投下した原子爆弾は、現代に続く核時代の幕開けを決定づけた。そして終戦後、初めて核実験が行われたのが、中部太平洋に浮かぶマーシャル諸島だ。敗戦した日本に代わって米国が統治し、原水爆実験を67回繰り返した。住民らは故郷を奪われ、放射性降下物を浴びて被ばくした上に、大海原の中で育んできた暮らしや文化の変容を迫られた。 【写真】くわを振り上げ、妻や子を手にかける男たち。当時11歳だった女性は、目の前で息絶えた母の横で死んだふりをして生き延びた。「血みどろで、まるで地獄絵図」大城静子さん(91)が79年前の惨劇を証言した。
2024年は、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」など日本の漁船員らも影響を受けたビキニ環礁での水爆実験から70年となる。2~3月に現地を訪ねると、核実験がもたらした苦しみが世代を超えて続いている現実を目の当たりにした。直接の体験者はもはやわずか。そんな中で、記憶の継承や更なる被害者の救済を模索する姿にも出会った。(敬称略、共同通信=野口英里子) ▽12年間の「核戦争」 マーシャル諸島は29の環礁と5つの島からなる、人口4万人ほどの国だ。日本との距離は約4500キロ。第1次世界大戦中の1914年から約30年間、日本が「南洋群島」と呼ぶ地域の一部として占領、統治した。 米軍は1946~47年、北西部のビキニ環礁とエニウェトク環礁から住民を移住させ、核実験場を設置。1954年3月1日、ビキニで行われた水爆実験「ブラボー」は広島に投下された原爆の約千倍の威力があり、飛散した放射性物質「死の灰」が一帯を汚染した。
その後、住民の間では原因不明の体調不良や甲状腺の異常、先天的な障害を持った子どもの出産などが見られるようになった。残留放射線の懸念や再居住施策の失敗で今も故郷に帰れない人たちがいる。 広島の「8月6日」、長崎の「8月9日」のように、マーシャルで「3月1日」は一連の核実験を思い起こす記念日とされ、毎年、首都マジュロで政府主催の被害者追悼式典が催される。今年は内外から約500人が参列。日本からも若者や被ばくした漁船員の遺族らが駆け付けた。 1958年まで続いた核実験の威力を合計すると、広島原爆約7千発分に相当したとされる。式典であいさつしたハイネ大統領は、核開発競争に巻き込まれた12年間を「核戦争に匹敵する状況」と表現。「他者の思惑が私たちの社会に持ち込んだ悲しみや苦悩を、他の誰にも経験してほしくない」と語った。 ▽奪われた「宝石」 「土地は大きな海の中に見つけた宝石なんだ。土地がないということは、存在のために必要なものを持たないのと同じだ」。追悼式典終了後、ビキニ環礁の出身者やその子孫を管轄するビキニ環礁自治体の首長、トミー・ジーボク(52)は悲しげな表情で語った。自治体といっても、ビキニには誰も暮らしていない。「米国は『人類の利益のため』と言って移住させた。しかし、私たちに起きたことは何だ?」