ひと皮むけた「師匠の孫」琴桜の初優勝、自身と重ね合わせる…元大関琴風の「演歌と土俵」
審判席にいた佐渡ヶ嶽部屋の秀ノ山親方(元関脇長谷川)が、土俵下に落ちてきた北の湖と重ね餅になった。親方は起き上がる際、隣に控えていた琴風の太ももを指先でゴリッとかき、「おめでとう」とつぶやいた。それでも半信半疑で花道を下がると、付け人の琴椿(現白玉親方)がおいおい泣いていた。「俺、優勝したのかって聞くと、言葉にならない声でうなずいた」。ようやく実感したという。
「辛抱と努力」でかなえたダブルの夢
実はこの場所、琴風には大関昇進という、もう一つの夢がかかっていた。当時の番付表を見ると横綱は3人で大関不在。番付に大関は欠かせず、横綱が「横綱大関」として代役を務める特殊な状態だ。琴風と朝汐の両関脇にとっては大きなチャンスでもあった。
12日目に11勝を挙げると新聞各紙は、「琴風、大関当確」と打った。「白星を一つでも多く……」という言葉は、「当確」を決定に持ち込みたいという一心でもあった。場所後の番付編成会議では満場一致での昇進が決まった。若い衆に肩車された琴風は、ひと皮むけた雄々しさがあった。
78年11月の左膝の大けがからほぼ3年。辛抱と努力の末、幕内優勝と大関昇進という夢をダブルでかなえた中山さんは、生涯成績が記された星取表を手に「表だけを見ていると、奇跡だよね」とつぶやいた。
「橋がなければ 架ければいい!」
引退して尾車部屋の師匠となった親方時代に、母校の津市立高茶屋小学校に贈ったメッセージが、現在も学校のホームページで見ることができる。
川がある。橋がない。船がない。そこであきらめたら終わり……。 橋がなければ 架ければいい! 船がなければ 作ればいい! どちらもだめなら 泳いで渡れ!
私の大好きな言葉です……。決意のあるところに道はできるのです。共に、夢に向かって一歩一歩前進していきましょう! 尾車浩一
琴風豪規
ことかぜ・こうき 1957年、津市栄町生まれ。中学2年の71年4月、元横綱琴桜(当時大関)に弟子入りし、同年7月、佐渡ヶ嶽部屋から初土俵を踏む。1メートル84、173キロ。大関在位は22場所、優勝2度。