「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治 坂東太郎のよく分かる時事用語
「竹下派支配」の始まりと終わり(平成元年~5年)
竹下氏は後継に中曽根派の宇野宗佑氏を指名(竹下裁定)。領袖でない者の首相就任は自民党史上初で、当時の竹下派の影響がいかに大きかったかを示します。しかし宇野首相は女性スキャンダルに見舞われ、1989(平成元)年夏の参議選で記録的大敗を喫し、わずか2か月で退陣。竹下派は河本派の海部俊樹氏擁立へ走ります。かねてより「本籍は竹下派」とからかわれていた海部氏もまた、派閥領袖ではありません。 「田中支配」が角栄氏1人の強烈なリーダーシップによるものであったのに対し、竹下派は竹下登氏に加え、派閥会長の金丸信氏と小沢一郎党幹事長の3人の「金・竹・小」が時に内々で闘争しつつも全体としては派をまとめ上げるという集団指導体制でした。 小派閥出身、しかも領袖ですらない悲しさで、海部政権の中枢はこの「金・竹・小」に握られていたのが実情です。1991(平成3)年の「重大な決意」(海部首相)との発言を首相の解散権行使と受け取った党内が「海部おろし」を画策、最後には竹下派にも見捨てられて孤立し、万事休す。何が何でもと思い定めれば解散できたはずなのに、それさえ許されないほど竹下派のパワーは強かったのでしょう。 後継の首相は宮澤喜一氏。池田勇人元首相が立ち上げた宏池会の正統な後継者で派閥の領袖(当時は宮沢派)でした。宏池会は大平正芳氏、鈴木善幸氏といった首相を輩出してきた名門派閥でしたが、とはいえ竹下派の威光は絶大。小沢氏は自身の事務所で宮沢氏ら総裁3候補を「面談」して傲慢のそしりも受けました。 そんな中、今度は竹下派内で抗争が発生。東京佐川急便からの5億円献金事件が報じられた金丸氏が1992(平成4)年8月に記者会見し、受領を認めて党副総裁の辞任を表明しました。さらに10月には議員辞職。こうして派閥会長をめぐる「小沢・反小沢」の権力闘争が表面化したのです。 羽田孜氏を推す小沢氏らと小渕氏を推薦する反小沢派が対立し、最高幹部会座長から新会長は小渕氏とする見解をが示されました。しかし、小沢氏は納得せず、盟友の羽田氏らと派を割り、宮沢内閣の不信任決議案に賛成し、可決されました。 宮沢首相は解散を選択し、小沢氏らは新生党を結成して総選挙に参入。結果は党分裂の影響もあり自民党が223(定数511)議席と過半数割れ。小沢氏らが主導して日本共産党を除く主な非自民勢力を糾合し、日本新党の細川護煕(もりひろ)代表を首班に担いで1993(平成5)年8月の首相指名選挙に勝利しました。自民党は1955年の結党以来、初めて野党へと追い落とされたのです。