「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治 坂東太郎のよく分かる時事用語
細川・羽田非自民政権が発足(平成5年、6年)
「三角大福中」や「竹下派支配」といったドロドロの自民党抗争劇にあきれ果てていた国民は、細川新政権に喝采を送りました。旧熊本藩主・細川家の当主という貴種にして、たった1人で日本新党を創設した潔さ、衆議院議員としては初当選といった清新さが受けて、内閣発足直後の各種世論調査で支持率が70%超えと上々のスタートを切ります。旧首相官邸での新閣僚らの記念撮影は、西階段をひな壇に見立てるのが通例でしたが、細川内閣は中庭で行い、日本酒での乾杯も猪口でなくシャンパングラスを使用。新しい時代の始まりを予感させる光景を演出したのでした。 細川氏は自らも掲げ、海部首相以来の自民党政権が成し遂げられなかった政治改革にまい進します。紆余曲折の結果、翌1994(平成6)年1月、自民党の河野洋平総裁とのトップ会談で当時の衆議院中選挙区制を現在の小選挙区比例代表並立制に改めるという合意にこぎ着けたのです。 しかし好事魔多し。翌2月のある夜、首相が突然、消費税を衣替えする「国民福祉税構想」(税率7%)を発表し、連立与党内が大混乱。翌日に撤回するというお粗末さを露呈しました。野党自民党は当時騒がれていた細川氏の東京佐川急便事件からの1億円借り入れ問題を徹底追及して挽回を図ります。 連立与党内もギクシャク。もともと政治改革達成の一点でまとまっていたので、問題が一服すると各党各派のせめぎ合いが始まります。そんなこんなに嫌気がさしたかのように4月、細川氏は突然首相の座を去ってしまったのです。 後継は羽田氏が襲ったものの、小沢氏らによる多数派工作で連立を外されそうになった日本社会党は猛反発して離脱。首相指名は乗り切っても、最初から少数与党政権に陥りました。当然、野党自民党は不信任決議案でとどめを刺そうと動き、一時は解散総選挙に打って出ようと思い立つも果たせず、6月に退陣しました。64日の短命政権でした。 ここで、何としても政権を奪還したい自民と、政権維持に必死な小沢氏の激しい駆け引きが始まります。自民党は55年体制成立以来の宿敵、社会党の村山富市委員長を担ぐという奇策中の奇策を編み出し、連立与党の一員であった新党さきがけも味方に引き入れる「自社さ連立構想」で挑みます。一方の小沢氏は手勢に加えて、自社連立に異議を唱えた海部俊樹元首相を首班候補として応援し、自民党議員の造反を誘おうと切り崩しを図りました。首相指名選挙は決選投票までもつれ込み、村山氏が勝利。自民が与党へ返り咲きます。