地下鉄サリン、警察庁長官銃撃…事件取材にあけくれた64歳の"セカンドライフ"は保育士か、幼稚園教諭か
■収入の当てはなかった 記者時代、大事件が起きた際には、自分たち記者がここで真相を追求しないと読者の求めに応えられないと必死で働いた。まったく家に帰らない、ほとんど睡眠がとれない、そんな状況が半年ほど続いたこともあった。 「それでも記者なら、自分のことなど顧みずそうすべきだというのが私の意見です。それが務めですから。保育所や幼稚園、福祉施設などで子どもと関わるお仕事に就いていられる方々にも、同じ志を持っていていただきたいと切に願っています」 62歳で「このまま記者を続けていても子どもの被害防止に役立つことはできない」と退職したとき、収入の当てはまったくなかった。生活費以外の収入はほとんど取材に注ぎ込んでいたため、蓄財もほとんどなかった。 雇用保険を受けるために行ったハローワークで、職員から「あなたの年齢だと紹介できる仕事は非常に限られる」と聞かされたこともある。 ■「決断」というほどのことではない そのうちに講師や執筆などの依頼が舞い込むようになったものの、金銭的に余裕があるとは言えない中で短大に入学するというのは、勇気のいる決断だったに違いない。60代で退職した後、まったく畑違いの分野に、極端に違う環境に、緒方さんのように飛び込める人は決して多くはないだろう。 そう伝えると、「いやいやとんでもない」と首を振った。 「たまさか、子どもを守るためにこんなおのれに何ができるのかと考えた末に短大に入る道を選んだだけで、決断というほどのことじゃないんですよ。子どもを守るということを記者生活では十分に成し得なかったから、その知識を身につけたいと思っただけで、全然大した話ではないんです」 自分は何も成し得ていない。色んな記事を書いてきたけれど、そんなものは屁の突っ張りにもならない。昔も今もろくでなしのハンパ者だと、謙遜でも何でもなく心底そう思っている。真剣な眼差しでそう語ってくれた。 ■時間のやりくりは今の方が大変 記者として十分すぎるほどのキャリアを築いた後の、第二の人生。しかし、本人は今の状況を「別にセカンドライフだとは思っていない」という。 新聞社を退職後、時間のやりくりはむしろ大変になった。記者時代は警視庁の記者クラブに詰めていたため、会社にはあまり行ったことがなかった。いつどこへ行こうとほぼ自由だったし、いつどこへ行こうとほぼ自由だった。 だが、短大では毎日決められた時間に決められた場所へ行かなければならない。最初は大変だったそうだが、入学時に心に決めた無遅刻無欠席は何とか達成できた。 卒業後の今も「スケジュール管理には苦労しています」と苦笑いする。特異な経歴のおかげで、メディアから取材を受ける機会も、本や雑誌に記事を書く機会も増えた。その取材日や締め切り日を間違えてはいけない、遅れてはいけないと思うたびに緊張が走る。