一度は引退に傾いた村田諒太はなぜ再起を決断したのか。その選択は正解なのか
プロボクシングのロンドン五輪金メダリストで前WBA世界ミドル級王者の村田諒太(32、帝拳)が4日、東京都新宿区の帝拳ジムで会見を開き、現役続行を表明した。村田は10月20日に米国ラスベガスで行われたロブ・ブラント(28、米国)との2度目の防衛戦に0-3の判定で完敗、タイトルを失い、その後の進退について保留していた。一度は引退の意思を固めたが、「この試合が最後では終われない」と再起を決めた。今後の具体的な再起計画は未定だが、問題は、タイトルも金も人気もすべてを手にしてしまった元王者が失ったハングリーさを取り戻せるか、どうか。果たして村田の再起選択は正解だったのか。
「一度は98パーセント引退しようと考えた」
テレビカメラが7台。暖冬の一日に帝拳ジムに約100人もの報道陣が詰めかけて会見は熱気に包まれた。これがファイトマネー1億円を超える“村田ブランド”なのだろう。注目の進退は、村田が真っ白なバンデージを巻き、ジャージ姿で現れた時点で判明していた。 「自分自身、試合を振り返って(映像を)見たりしたが、いいところがなかった。(将来)自分の人生を振り返ったとき、この試合が、あのボクシングが集大成でいいのか、最後でいいのかと。あのボクシングで(現役を)終えたくない。ハングリーさ、求めるものが欠如していた。気持ちを作り直して、もう一度、世界の舞台に立てるボクサーになりたい。ただ立つのではなく、心身ともに鍛え、求めるものをしっかりと求める自分になりたい」 現役続行を表明した。 ラスベガスのV2戦に完敗。元3団体統一王者のゲンナジー・ゴロフキン(36、カザフスタン)と計画されていた東京ドーム決戦は、はかない泡となって消えた。 ハングリーさだけでなく、次の大きな目標をも失った村田は、「もう98パーセント辞めようと思った」という。だが、残した「2パーセント」。ボクシングへの未練がどんどん膨らんでいく。南京都高(現・京都廣学館高)時代の恩師、武元前川先生の眠るお墓にラスベガスの試合を報告し、尊敬する父のいる岡山を訪ね、家族とは沖縄旅行にでかけた。可愛い息子には「ボクシングを続けて欲しい」と懇願もされた。 ブラントに打たれ、しばらく消えなかった目の周囲の青い痣が薄くなり、自分自身とも向き合う時間を持てるようになった村田は、1970年代のアリスの名曲「チャンピオン」になぞらえて、こういった。 「負けた人がチャンピオンという歌を聴いて気持ちがわかる、とよく聞くが、僕にはそんなにわからなかった。僕が今チャンピオンを聴くのはまだ早い」 チャンピオンが何度も立ち上がるが、若い挑戦者にKO負けして、そのロッカーで「帰れるんだ、これでただの男に」とつぶやき、引退を決意するという内容。カシアス内藤を描いた沢木耕太郎の名作「敗れざる者たち」へのオマージュとして書かれたとされる名曲だ。 ブラント戦の敗因は“我にあった”。調整に失敗、試合中の戦略にも失敗した。 「自分に原因があった」 王座陥落の映像は2回見た。 「反省点は、いっぱいある。一撃がなかった。起死回生の一発がなかった。ただ前へ出て、チョロチョロとしたパンチを打っていただけ。構えも悪い、距離も悪い。1ラウンドから焦って、前へ前へと(相手の懐へ)入りすぎて、強いパンチを打てなくなる、と言う悪循環。もっと入る前にパンチを打たなくちゃいけなかったし、強いパンチを打てる距離でプレスをかける、足の動き、バランスが必要だった」 冷静に試合を分析できるほど心と体がリフレッシュしてくると無性に動きたくなった。