“昭和99年”語り継ぐ「戦争は絶対したらいかん」神戸に今も残る『防空壕』 空襲におびえた当時小学生は現在85歳 あの時の記憶を語る
小学生だった窪井さんは、通学中にも空襲の恐怖に襲われていました。 【窪井靖男さん】「小学校に行くんですけど、いつ空襲警報が鳴るか分からない。鳴ったら先生が授業を中止して、『皆さん帰りなさい』と言われて、自分の家を目指して帰るんです」 「防空壕が至るところにあるんですけど、近所の人や通行人が入って、防空壕の入り口が人の背中しか(見えない)、子どもも入れない状態なんです」 「母親が防空頭巾を被って、血相を変えて迎えに来てくれたことは再々ありました」 【吉原功兼キャスター】「学校の帰りに空襲が…どういう気持ちでした?」 【窪井靖男さん】「毎日毎日、空襲警報が鳴らへんか、毎日それがありました」
■出征した父 届いたのは戦死の知らせだけ
窪井さんの心に影を落としたのは、空襲の記憶だけではありません。 【窪井靖男さん】「これです。いつもこんな格好でして」 窪井さんの父・貞徳(さだのり)さんの写真を見せてくれました。 【吉原功兼キャスター】「この頃のお父さんの記憶は?」 【窪井靖男さん】「ないです」 父・貞徳さんは、窪井さんが4歳の時にミャンマーへ出征。一緒に過ごせたのは、幼少期のわずか数年でした。 【窪井靖男さん】「戦争せないかん時代に、父親は子どもを置いて戦争に行って、内地におったら毎日かわいがってもらえたと思うけど、戦争に行っているから」 所属していた部隊が全滅した…。終戦のおよそ1年前、家族のもとには、貞徳さんの戦死の知らせだけが届きました。
吉原キャスターは窪井さんと共に、貞徳さんの墓がある霊園へ訪れました。 【吉原功兼キャスター】「お父さまの遺骨は?」 【窪井靖男さん】「遺骨はないんです。ここへ納める時に中を見てみたら、名前が書いてあるだけの木の札だけでした」 【吉原功兼キャスター】「戦争で亡くなるってことは…」 【窪井靖男さん】「ジャングル戦で、どこでどうなっているか分からないからね。戦友が『窪井はどこで亡くなった』って伝える人がおったらいいんやけど、一人も生きて帰ってきてないからね」