“SNS不適切投稿”の岡口判事を「罷免」した弾劾裁判の“中身”の問題点…国会議員が「裁判官の表現の自由」を裁く危険性
「表現の自由の制約」が問題となる「法律解釈」を弾劾裁判所で行う難しさ
以上は主に論理的整合性、すなわち日本語の基本的な文法のレベルの問題だが、岡口氏はそれに加えて「表現の自由」に対する理解が不足している点にも問題があると指摘する。 本件で問題となった弾劾事由は「職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき」である(裁判官弾劾法2条2号)。 「威信を著しく失うべき非行」は評価を含む抽象的な要件であり、適用の仕方によっては人権侵害のおそれがあるため、憲法に適合するように解釈する必要がある。 本件では、岡口氏のSNSでの投稿等の表現行為が問われており、表現の自由(憲法21条)の制約が問題となる。岡口氏は大きく2つの問題点を指摘している。 第一に、弾劾裁判所が「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」の「著しく」は「国民の信託に対する背反」を意味すると解釈した点について、明確性を欠き、萎縮効果を招くものだと指摘した。 岡口氏:「『裁判官としての威信を著しく失う』と『国民の信託に反する背反』とでは意味がまったく異なり、完全に解釈の限界を超えている。 事実上、法文を書き換えて『法改正』をしてしまっている」 この点については、東京弁護士会の会長声明においても、「規範としては曖昧」「萎縮効果に対する最大限の考慮があったとは言い難い」と批判されている。 第二に、弾劾裁判所が前述のように「刑事事件投稿」が「結果として遺族を傷つけた」ことを罷免判決の主要な理由の一つとしている点については、表現の自由の理解を根本的に誤っていると指摘した。 岡口氏:「表現の自由については、誰かを傷つける意図をもたずに表現行為をして、結果的に誰かが傷ついたという場合に、法的責任を問うべきではないと考えられている。 そのような場合にまで法的責任を問えるということになると、委縮して表現行為自体ができなくなってしまうからだ」 前述のように、弾劾裁判所は「刑事事件投稿」について被害者遺族を傷つける意図はなかったと明確に判断している。したがって、表現の自由の原則的な考え方(※)によれば、法的責任を問われるべき場面ではなかったことになる。 ※詳細は#【関連記事】参照。 なお、岡口氏は、東京高裁の遺族やマスコミへの対応にも問題があったと指摘している。 岡口氏:「私はすぐに投稿を削除したが、遺族の方が東京高裁に抗議に訪れた。私はその時出勤していたので、私がお目にかかって謝罪するのがベストだったと思う。 ところが、東京高裁は遺族が来庁したことを私に知らせず、遺族を帰した。そして私は、事務局長から遺族やその代理人との面会を一切禁じる職務命令を受けた。 東京高裁がそうしたのには思惑があったと考えられる。というのも、後になって知ったことだが、東京高裁の刑事部には『性犯罪に関する刑事事件の判決文はウェブサイトで公開しない』という内規がある。問題の判決文は、それに違反して掲載されたものだった。 私は刑事部の裁判官ではないので、そのような内規は知らなかった。東京高裁は、内規に違反して判決文をHPに掲載したミスを国民から批判されないように、『悪いのは岡口だ』ということで話を終わらせようとしたのではないかと思う。 東京高裁はその後、何度も遺族との面会を重ね、マスコミは岡口批判を繰り返すようになった。私は遺族に面会して謝罪することも許されなかった」