比叡山から追放された者が「鬼」になった? 大江山の鬼「茨木童子」の正体とは
酒呑童子の相棒で、源頼光らに退治された茨城童子。大江山の鬼たちは比叡山などから追放された稚児たちが山賊になった者とする説もあるが、何者なのだろうか? ■正体は寺の稚児とも言われる大江山の鬼たち 【時代】平安時代中期 【出典】『摂津名所図会』、『御伽草子』など 【地域】大阪府茨木市、新潟県長岡市、京都府福知山市(大江山)など 『御伽草子(おとぎぞうし)』の『酒吞童子(しゅてんんどうじ)』に、酒吞童子に従った鬼たちの名前が書き連ねてある。かれらはすべて、酒吞童子とともに、源頼光(よりみつ)主従に討たれた。 鬼たちの中で、酒吞童子の相棒と呼ぶべき立場にあったのが、茨木童子(いばらきどうじ)である。かれはもともとは、摂津(せっつ)の茨木(大阪府茨木市)の独自の鬼伝説の主人公であった。それがのちに、大江山の鬼の一員とされた。 そしてこの茨木童子の下に、四天王と呼ばれる鬼たちがいた。熊(くま)童子、虎熊(とらくま)童子、ほしくま童子、かね童子である。 酒吞童子、茨木童子、四天王の6匹の鬼を含めて、28匹の鬼が源頼光に討たれたとある。これとは別に、頼光主従が四十数鬼を斬ったという記録もある。 さらに大江山の鬼退治が行われた時に、鬼童丸(きどうまる)も征伐(せいばつ)されたという言い伝えもみられる。 大江山(おおえやま)の鬼たちは、このようにすべて「童子」などを称した童子鬼だとされていた。この点を根拠に、比叡山(ひえいざん)などから追放された寺の稚児(ちご)が集まり、僧兵をまねて武装して大江山の山賊(さんぞく)になっていたとする説もある。 当時の有力な寺院の稚児の中に、少年時代から武芸の修行に励んだ者もいた。かれらは成人して出家したのちに、有力な僧兵となった。 茨木童子は、摂津国富松里(とみまつのさと/兵庫県尼崎市)で人間の夫婦の子供として生まれたが、その姿が異様であったために茨木の里(茨木市)に捨てられた。かれは山に入り独自の修行をしたあと、鬼となって近在の人々を苦しめたという。 茨木は、京都と大坂を結ぶ交通路の近くにある。茨木の地に残る山賊の話がもとになって茨木童子という鬼の話がつくられたのかもしれない。 この茨木童子は、茨木を通りかかった酒吞童子と出会い、かれと意気投合して大江山の鬼の一員になったという。大江山の鬼退治に加わった武士たちの中に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)がいるが、かれは源頼光の家臣ではなかった。 藤原保昌は藤原道長(みちなが)、頼通(よりみち)の父子に仕えた摂津の有力な武士で、歌人として名高い和泉式部(いずみしきぶ)の夫としても知られている。大江山の鬼退治の物語がつくられた時に、源頼光と同格であった藤原保昌に対応させるために、茨木童子が大江山の鬼に加えられたのであろう。 保昌はよく知られた摂津の武士で、茨木童子は摂津の名高い鬼である。さらに源頼光の家来の渡辺綱らの四天王にならう形で、酒吞童子に従う四天王の熊童子らの鬼の名前が考え出されたらしい。 監修・文 武光誠 歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部