「大蔵省の責任を書かないという選択肢はなかった」山一証券社長は大蔵省から含み損の「飛ばし」を示唆された…“ミンボー専門”の42歳の弁護士が「調査報告書」に込めた思いとはー平成事件史(18)戦後最大の経営破たん
だが長野は淡々と続けた。 「大蔵省は11月26日に山一の簿外債務について発表します。同時に会社も発表してください」 野澤は、頭を下げて泣きついた。 「局長、何とか助けてください」 わずか5日間に何かがあったのだろうか。 1997年11月は日本にとって金融危機のクライマックスだった。「三洋証券」「北海道拓殖銀行」「山一証券」「徳陽シティ銀行」・・・毎週のように次々に銀行や証券会社が破綻していた。なかでも「北海道拓殖銀行」は戦後初の都市銀行の破たんとなり、金融市場をパニックに陥れた。マーケットには激震が走った。 その「たくぎん」の破たんが発表された11月17日、長野は大蔵省で緊急の対策会議を開いた。関係者によると長野は会議に先立って、山一の資産状況を精査していた日本銀行にも相談。しかし「違法行為があるところを救済などできるはずがない」と相手にされなかったという。 そこで長野は、日銀の救済が無理なら「会社更生法」は使えないか、部下と検討したが「規模が大きすぎる。違法行為もあるし、東京地裁は認めないだろう」と結論づけた。そもそも「飛ばし」を隠ぺいしていた以上、会社の存続を許すわけにもいかなかった。選択肢を一つ一つ精査していくうちに「自主廃業」しかなかったのだ。 1997年11月19日、山一証券株は、終値で「65円」まで下落。終値が100円を切るのは上場以来のことだった。 11月20日、山一証券という会社存続の唯一の方法だった「会社更生法」についても、案の定、東京地裁から門前払いだった。 「『飛ばし』という違法行為があるため「会社更生法」は使えない」との見解だった。 野澤は再び、大蔵省に赴いて長野局長と面会した。 「なんと支援をお願いできませんか、26日の発表は延期していただくわけにはいかないでしょうか」 すると長野はこう迫ったという。 「自分が野澤社長と会ったことが代議士周辺から漏れている。(なので26日ではなく)24日にも発表するので準備してくれ。これは内閣の判断です」
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