ポステコグルーにとって、日本がこの上なく難しい環境だった理由とは?「一部の選手がアンジェに不安を抱いていた」
「アンジェから一つ学んだとすれば…」
今矢は10歳で家族とオーストラリアに引っ越し、オージーイングリッシュを習得した。日本に戻ったのは、サッカーで高みを目指すためだ。 「最初の何日かは合宿でした。沖縄だったと思いますが、アンジェとピーターが来日してすぐ、トレーニングキャンプに入りました。その頃に銭湯や温泉に行ったのですが、選手たちがすかさず『この人は大丈夫ですか?』『F・マリノスに長くいるが、こんなに早い時期に文句が出るのは珍しい』と私に言ったのを覚えています。 ただ相槌を打って、話を合わせることもできました。でも、流されちゃいけない気がして、『彼はトップレベルの監督だよ。信頼して』と伝えました。それからは、選手たちが私に不満を言いに来なくなりました。私に言っても聞かないし、私がアンジェのしていることを信じていると、はっきり気づいたからでしょう。 一部の選手がアンジェに不安を抱いていたこと、さらには反発していたことは、よく覚えています。アンジェが話をしている間、私はすぐ隣に立って、選手たちが発する雰囲気を感じていましたから。その場に座った選手たちは『いやあ、これはうまくいかないぞ』と明らかに思っていましたし、そういうエネルギーを感じました」 今矢は話を続けた。 「アンジェから一つ学んだとすれば、そんな状況に置かれると人はしどろもどろになったり、言葉が出なくなったりすることがある、ということです。どもりも始まります。でも、アンジェの言葉には純粋な信念があった。そのことは、出だしの段階で彼自身の確かな支えになりました。もしアンジェに自信がなく、私も確信が持てずにいたら、私は不満を抱く選手からの負のエネルギーを感じてしまい、アンジェが発するエネルギーをありのままに感じとれなくなる。そうなると、メッセージを行き渡らせることは非常に難しかったでしょう。 でも、アンジェの意志と考えは、それまでのキャリアで揺るぎないものになっていました。チームがどういうサッカーをすべきかについて、彼には強い信念があった。これと定めたサッカースタイルがあった。私たちが成功しようと思ったら、あの方法以外になかった」 (本記事は東洋館出版社刊の書籍『アンジェ・ポステコグルー 変革者』から一部転載) ※次回、連載中編は6月28日に公開予定 <了>
文=ジョン・グリーチャン