「米軍を迎撃せよ!」…日本軍「幻の戦闘機・震電」がたどった「悲しすぎる運命」と「知られざる開発秘話」をいま明かす!
米国の事故ニュースで察知した「B-29開発」情報
43年2月18日、アメリカでボーイングB-29スーパーフォートレスの試作二号機がフライトテスト中に墜落し、搭乗員のみならず民間人も巻き込んで31名の死者が出た。日本側はこのニュースに接して、アメリカが高高度飛行が可能な長距離重爆撃機B─29を開発中との情報を掴むことになる。 そしてその航続距離を過大評価し、ハワイ諸島やミッドウェーから直接に日本本土の爆撃が可能と推察。やがてB-29が完成すれば、日本本土が空襲に晒されることになるのではないかと警戒を強めていた。 このように、B-29の情報に加えて戦局の悪化という厳しい背景も大きく影響して、海軍は早くも44年2月にエンテ型機の実機開発と試作を決定。つまり海軍としては、エンテ型機を零戦のような制空戦闘機(汎用戦闘機)としてではなく、重爆撃機の迎撃に主眼を置いた局地戦闘機と位置付けたのだ。 かくして日本海軍初のエンテ型機は当時、他の航空機メーカーに比べてまだ余裕のあった九州飛行機にその開発が発注された。そして44年5月、来たるべきアメリカ重爆撃機迎撃の要とすべく、局地戦闘機「震電」の試作が正式に通達された。
2度のフライトのみで「終戦」、迎撃の空戦は幻に
44年6月15日、B-29が日本本土の九州を爆撃。この同機による日本本土初空襲を皮切に本格的な日本本土空襲が始まった。「震電」の開発と生産はかような状況下でスタートしたため、空襲の激化やエンジン開発の遅れなどで計画は大幅に遅延し、敗戦約2カ月前の45年6月に、かろうじて試作一号機が完成した。 だが地上滑走試験中のプロペラの破損などにより、8月3日の初飛行のあと、わずか2度のフライトテストをしただけで終戦を迎えた。しかもフライトテスト時には1度も脚を引き込まなかったので、最大速度はもちろんのこと、上昇限界のテストも行なわれていない。「震電」の完成機は試作一号機のみとされるが、終戦の時点で組み立て途中の二、三号機と、十数機分の部品類のストックがあったという。 かくして日本の空を我が物顔で飛行するB-29の大編隊を「震電」が真っ向から迎撃。大威力の30mm機銃を叩き込んで次々と撃墜する勇姿も、最新鋭のP─51Hを相手に空戦を演ずる様子も、残念ながらすべてが幻に潰えた。 なお、B-29 空戦において想定された「震電」の戦法は、まず「震電」がB-29編隊の進路前方上空に展開。そして同編隊に対して急降下で斬り込み、30ミリ機銃でB-29を狙い撃ちつつ、敵護衛戦闘機を振り切るため下方へと離脱。そこで高速を利して再びB-29編隊の進路前方上空へと昇り、同様の攻撃を反復するというものだった。 やはり高速を利して重爆撃機を迎撃したドイツのジェット戦闘機メッサーシュミットMe262シュヴァルベの戦法に類似するが、そのシュヴァルベでさえ上昇中や急降下前の待機中に、レシプロ機のノースアメリカンP-51Dマスタングに捉えられて撃墜されている。 そしてB-29の護衛はこのP-51Dであり、アメリカは近々、より高性能のP-51HをB-29の護衛に充てようと考えていた。P-51Hの最大速度は「震電」の予定最大速度を上回る約790キロ/hなので、もし同機を相手にしたら、対重爆撃機に主眼を置いた「震電」はかなり苦戦を強いられたかも知れない。 とはいえ、もし「震電」を一定の機数以上揃えられたうえで日本本土の防空に臨むことができれば、B-29の損害は史実以上に大きなものとなったのは間違いない。
潮書房光人新社