1990年代の早明戦 早稲田は明治のジャージーにタックル・明治は先輩後輩関係も「タテ」だった…97年度主将対談
12月1日、関東大学対抗戦の伝統の一戦である早稲田大学対明治大学の「早明戦」が100回目を迎える。1997年度に両チームの主将を務めた早稲田大OBの石川安彦さん(元東芝府中、三洋電機など)と、明治大OBの田中澄憲さん(元サントリー、前明治大学監督)の同期2人にお話をうかがった。「上」では、当時のラグビー部生活や早明戦など、現在とは大きく違った空気感について語っていただいた。 【写真】早明対決となった1997年1月の大学選手権決勝。旧国立競技場のすり鉢状のスタンドがぎっしり埋まっている プロラグビー選手だった石川さんはラグビースクールを中心にラグビー教育に携わっており、日本代表経験もある田中さんは東京サントリーサンゴリアスのGM(ゼネラルマネージャー)をしており、48歳となった現在も2人ともラグビーに携わっている。
上下関係がなかった早稲田、「タテ」社会だった明治
―早稲田大、明治大に入った経緯を教えてください。 石川 日川高校でラグビーを始めて、高校2年でベスト4に入りましたね。小学校6年の時に、早稲田大のSH堀越正巳さん、FB今泉清さん、明治大のWTB吉田義人さんが出場していた「早明戦」をテレビで見て、早稲田大のえんじのジャージーが格好よかった。 田中 兵庫・伊丹ラグビースクールで競技を始めましたが、私ももともと「早明戦」、そして早稲田大に憧れていた。報徳学園に進んで、3年時は初めて花園のAシードに選ばれたのですが、東京農大二高に3回戦で負けてしまいました。早稲田大に行きたかったけど、報徳学園から進んだ人があまりいなかったこともあり、「早明戦」に出たいと思い、明治大に進みました。 ―お二人が入学した当時はどうでしたか? 石川 大学に入ると、日本代表も率いた宿沢(広朗)さんが監督に就任していました。1試合だけCチームの試合に出て、それを見ていた宿沢さんにAチームに上げてもらいましたね。当時の宿沢さんは銀行の支店長をやっている時で、土日以外は自分たちでやるという環境が初めてだったので新鮮でした。宿沢さんによく言われたのは「学年は関係ない。別に1年だから遠慮することはない」、そして「自分の強みを生かせ」ということでした。 田中 明治大は基本的には学生で運営されていたので、北島(忠治)先生も来ていましたが、練習を見に来て何も言わずに終わったら帰るみたいな感じでした。1年のときはずっと練習に来てくださっていましたが、北島先生は2年から来なくなって、3年の春に亡くなられました。会話はほとんどしたことがなくて、たまに声を掛けられて、「寮のゴミ、ちゃんと捨てとけよ」とか、「どこ出身だ? 名前とポジションは?」とか聞かれるくらい。1つ覚えているのは、大学1年時の慶應義塾大学との試合前に、北島先生がロッカーにやってきて「慶應のおかげで、ラグビーができている。それをしっかり理解してリスペクトして臨め」と言って出て行きました。その時、「初めて、明治に来たんだな」と思いましたね。 ―大学に入って驚いたことは? 石川 高校時代は上下関係がすごくあったんですが、早稲田大は上下関係がまったくなかった。明治大とは真逆でしたね(苦笑)。コンビニに行こうとすると、いっしょにジュースを買って来てくれないかと言われて、1,000円を渡されてお釣りをもらえたのでうれしかった。 田中 本当に真逆だったと思います。特に明治大は寮での決まり事が多かった。通っちゃいけない場所や、やっちゃいけないことが多かった。例えば、寝ている先輩を起こす時には、しゃべりかけちゃいけないし、先輩より目線は絶対下にしないといけなかった。テレビを見ながら寝ている人がいたら、床に顔をつけないといけなかった。でも門限とかはみんな絶対守っていましたし、グラウンドでも例えば〝さん〟づけするな、というルールもありました。 1年生は大学選手権で負けたら、先輩から解放されて休みになりますよね。今だから笑えますけど、大学選手権の2回戦の中央大学戦で、僕がクイックリスタートして、トライを挙げて勝ったら同期から「お前、何しているんだ!」と怒られました(苦笑)。1年生の時はそれぐらい厳しい寮生活を送っていました。