「孤高の外政家」高村正彦が見せた力量――官僚主導から政治主導の30年を振り返る
外相、自民党副総裁として長らく外政・安全保障分野を中心に活躍した高村正彦氏のオーラルヒストリー『冷戦後の日本外交』(新潮選書)が発売され、話題を呼んでいる。聞き手の一人を務めた兼原信克・同志社大学特別客員教授(元内閣官房副長官補、国家安全保障局次長)が、官僚主導から政治主導に切り替わった日本政治の30年を振り返り、高村氏が「孤高の外政家」として果たした役割を考察した。 ***
官僚主導政治の時代
40年前、外務省に入りたてのころ、G7(主要7ヵ国)首脳会合を担当した。上司からの指示は、「各議題で日本の総理をトップバッターで発言させてもらえ」というものだった。どうしてですかといぶかしがる私に、上司は呆れ顔で「議論についていけないからだよっ」と吐き捨てた。それが当時の日本外交の実力だった。首脳会談では、往々にして日本の首脳は、御付きの外務省高官が差し出すメモを読み上げるのが精一杯だった。森の散策では、各国首脳に交じって外務省高官が談笑しながら歩き、英語に不自由な日本の総理がとぼとぼと後をついて歩くことさえあった。 安倍晋三総理や、岸田文雄総理が見事にG7議長として采配を振るわれた今日からは、到底、想像もできない時代であった。しかし、これが官僚主導時代の日本外交の姿である。当時、与党自民党の議員は、霞が関(官界)のことを政府と呼び、永田町(政界)の方を与党と呼んだ。行政府のトップの閣僚席を与党議員で独占していながら、まるで自分たちが政府の一員ではないかのようだった。国会対策を担当していた先輩は、「国会議員は、国会に呼びつけて罵倒できる各省庁の局長ではなく、姿も見えないままに霞が関の奥の院に巣食っている課長の群れこそ、政府の本体だと思っている」と述べていた。今では考えられないことだが、かつての官僚全盛時代には、官界の主導権は各省庁の課長クラスが担っていた。
冷戦の崩壊と国民主権の目覚め
1991年12月に、ソヴィエト連邦が突然内側から崩落した。93年には、戦後日本をがんじがらめに縛っていた55年体制が音を立てて崩れた。およそ70年前の1955年、日本社会党が立ち上がり、対抗して自由民主党が立ち上がった。日本社会党はソヴィエト連邦の利益を代弁し、自由民主党は米国の利益を代弁して、厳しい国内冷戦が始まった。西側諸国の中には、労働組合を代表する政党がソヴィエト連邦に忠誠を示した例はない。米国の民主党はもとより、イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社民党も、当然ながら西側の一員であった。しかし、日本では国内政治が東西に引き裂かれ、安全保障政策を麻痺させた。 自由民主党の社会政策は、社会主義そのものである。国民皆保険を唱えたのは岸内閣である。実は、自民党と社会党の社会政策はさほど違わない。唯一、ワシントンを取るか、モスクワを取るかという点だけが先鋭に異なっていた。日本の「保革(保守・革新)対立」の内実とは、自由主義か社会主義かという政策問題というよりも、安保・外交政策を巡る対立であった。 自由民主党は、日米同盟を強化して結んで自由世界を選択し、高度経済成長と手厚い福祉国家を実現した。その間、鬼籍に入ったロシアのスターリンも中国の毛沢東も、その苛烈な独裁を、後を襲ったフルシチョフや鄧小平によって厳しく糾弾された。共産主義下のロシアや中国における自由の圧殺や貧しい生活が、広く世界に知られるようになった。日本でも過激派によるあさま山荘事件や三菱重工ビル爆破事件を経て、議会制民主主義を暴力的に否定する急進的な社会主義思想は国民の支持を失っていった。東側に軸足を入れた日本社会党は、冷戦終結の衝撃に耐えられず瓦解した。それは、歴史の必然であった。