鎌倉時代の女性リーダー・北条政子、夫・頼朝への激情と静御前への慈悲
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います。 【写真】葛飾北斎が肉筆画で描いた、白拍子姿の静御前 ■ どのような「女性指導者」だったのか 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室は、北条政子です。政子は、夫の死後、「尼将軍」として、幕府に重きをなした女性。近年、日本においても、女性のリーダーが増えてきましたが、では、政子は、どのような「女性指導者」だったのでしょう。 政子は、保元2年(1157)、伊豆国の豪族・北条時政の娘として、生を受けます。母は、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘だと考えられています(北条義時は、同母弟)。 政子は、普通ならば、成長後は、伊豆国、もしくはその周辺国の豪族(もしくはその子弟)に嫁ぎ、子をなし、特に歴史に名を刻むことなく、生涯を終えていくはずでした。ところが、そうはならなかったのは、周知の通り、政子が伊豆に配流となっていた源氏の嫡流、源頼朝と恋仲になり、結ばれたからです。 政子と頼朝の恋は、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)によると、激しいものだったようです。政子の父・北条時政は、当初、娘(政子)が頼朝と付き合うことに反対していました。単に言葉で反対したというよりは、政子を自邸に閉じ込めてしまったのです。時政は、なぜそこまでしたのか? 同書は「時宜を怖れ」とあります。当時はまだ平家が力を持っていた時代。そのような時に、平治の乱(1159年)に参戦し敗れて伊豆に流罪となった頼朝と結び付きを強めることは、得策ではないと考えたのでしょう。得策ばかりか、平家にあらぬ疑いをかけられ、家の破滅に繋がると考えたので、政子と頼朝の恋に時政は反対したと推測されます(あくまで、『吾妻鏡』の記述が本当ならばの話ですが)。 ところが、政子は父の反対に屈するような女性ではありませんでした。閉じ込められている邸から抜け出し、激しい雨が降る暗い夜道をくぐり抜け、頼朝に会いに行ったのです。その後の時政の反応というものは記されていませんが、娘・政子がここまで頼朝のことを想っているということを知り、渋々、頼朝と付き合うことを認めたと思われます(これ以上、反対したら、政子がどのようなことを仕出かすか分からないと恐怖したかもしれません)。ちなみに、闇夜を頼朝のもとに走った逸話というのは、文治2年(1186)4月、政子が頼朝に話したものです。 具体的に言うと、頼朝と敵対する源義経(頼朝の異母弟)の愛妾・静御前が鎌倉に連行され、鶴岡八幡宮において、義経を恋い慕う舞いを舞った時のことでした。その舞いを見た頼朝は「謀反人・義経を慕い、別れの曲を歌うとは」と激怒します。夫・頼朝の怒りを宥めるために政子が語ったのが、前述の激しい恋の逸話なのです。