時代考証が解説! 中国舶来品はどのように平安貴族に広まったか?
定子遷御に対する実資の批判
六月二十二日の夜、一条は、長徳の変の最中の前年五月一日に出家した定子をふたたび職曹司(しきのぞうし)に遷御(せんぎょ)させた。「天下は感心しなかった。『あの宮の人々は、「中宮(ちゅうぐう)は出家されていない」と称している』と云うことだ。甚だ希有(けう)の事である」という実資の批判(『小右記』)は、宮廷社会全般に共通するものだったはずである。そしてその批判は、我意を張って定子を寵愛(ちょうあい)する一条にも向けられたものだったであろう。 その間、長徳二年(九九六)十一月に入内(じゅだい)した女御(にょうご)の元子(がんし)(右大臣藤原顕光〈あきみつ〉の女〈むすめ〉)に対する一条の寵愛もつづき、この年の八月頃、元子は懐妊(かいにん)した(翌年、破水〈はすい〉してしまう〈『台記』〉。もともと他の病気か想像妊娠だったのかもしれない)。彰子(しょうし)が成人もしていない道長としては、これらの事態には手をこまねいているしか方策はなかった。
朱仁聡の訴え
古記録や文学作品を少しでも眺めれば、平安貴族が唐物と呼ばれる中国舶来品に囲まれて生活していたということは、容易に察せられるところである。なお、中国で唐が滅亡した後にも、何故に中国や外国全般を指して「唐」と呼ぶのか、また何故にそれを「から」と訓むのかは、興味深い問題である(私は、「から」は「加羅」ではないかと考えている)。 延喜(えんぎ)十一年(九一一)、唐海商の来航間隔を十年以上とする年紀(ねんき)制が定められたが、年紀を無視して来航する者や、廻却(かいきゃく)処分を受けるまでの期間に民間貿易をおこなう者が現われた。海商が来着(らいちゃく)すると、大宰府の鴻臚館(こうろかん)に安置(あんち)され、蔵人所から唐物使(からもののつかい)が派遣されるのが通例であったが、これを大宰府に委任することもおこなわれた。 道長執政期には、長徳元年(九九五)に朱仁聡(しゅじんそう)・林庭幹(りんていかん)、長保元年(九九九)に曾令文(それいぶん)、長保四年に用銛(ようせん)、長保五年にふたたび用銛、寛弘二年(一〇〇五)にふたたび曾令文、寛弘六年に仁旺(じんおう)、長和元年(一〇一二)に周文裔(しゅうぶんえい)が、それぞれ来着している。 なお、長保二年の八月二十四日には、皇后定子が朱仁聡から買い求めた唐物の代金が支払われていないということが、仁聡から大宰府に訴えられていることが見える(『権記』)。どうもあちこちで不正がおこなわれていたことをうかがわせる事件である。 曾令文の方は寛弘二年八月にふたたび来着した(『権記』)。二十一日には令文を安置するか否かを定める陣定が開かれた。年紀を重視するかぎり、これを廻却することは、実資の言うとおり「道理(どうり)」であった。諸卿の意見も、道長をのぞく九人すべてが、追却(ついきゃく)を主張していた。しかし、一条の意見は「安置せよ」であり、それに沿って宣旨が下された(『小右記』)。 「内裏が焼亡したので、唐物がすべて焼失してしまった。然(しか)るべき物を選んで交易させることは問題ないであろう」というのが、密かに語られた事情であった(『小右記』)。 曾令文はまんまと貿易の益にありついた。翌寛弘三年十月九日に朝廷が買い上げた唐物を天皇が覧(み)る唐物御覧(からものごらん)がおこなわれたほか、二十日にはそれとは別に、道長に蘇木(そぼく)と茶碗(ちゃわん、陶磁器全般)、それに『五臣注文選(ごしんちゅうもんぜん)』と『白氏文集(はくしもんじゅう)』を献上している(『御堂関白記』)。 長和元年九月、周文裔が来着した。二十二日の陣定では、廻却するべきではあるが、天皇の代替わりがあったので安置することとし、唐物使は路次(ろじ)の国の愁いがあるので取りやめ、大宰府を介して然るべき物を召し上げることとした(『御堂関白記』)。 大宰府が和市(わし、合意のうえでの売買)した唐物は、翌長和二年二月二日に進上(しんじょう)され、四日に唐物御覧がおこなわれた。三条天皇は唐物を彰子をはじめとする後宮(こうきゅう)、敦明をはじめとする皇子女、そして道長に頒賜(はんし)した。道長は、錦(にしき)・綾(あや)・丁子(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・紺青(こんじょう)・甘松(かんしょう)を賜わっている。また、三条は十月八日、諸所に茶碗や蘇芳を下賜している(『御堂関白記』)。このようにして唐物は、貴族社会に浸透していくのである(倉本一宏『藤原道長の日常生活』)。
倉本 一宏