時代考証が解説! 中国舶来品はどのように平安貴族に広まったか?
---------- 2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。 ---------- 【写真】貧乏学者の娘・紫式部と右大臣家の御曹司・藤原道長の本当の関係は?
三蹟の一人と称された行成
大河ドラマ「光る君へ」23話では、藤原行成(ゆきなり)の書について触れられていた。言うまでもなく、行成は平安時代中期の能書(のうしょ)で、日本風の書である和様(わよう)の書を完成させた。後世、小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(すけまさ)とともに「三蹟(さんせき)」と称された。 その後、院政期の鳥羽(とば)天皇の時代まで、みな行成に倣(なら)って書いていたと言われるほど、行成の書風は流行したという。藤原道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の書体も行成に倣って書いたと言う方もおられる(とてもそうは見えないが)。 さらには後世に書かれた流麗な仮名の古筆切(こひつぎれ)(「升色紙〈ますしきし〉」など)も、「行成の書であってほしい」という望みをこめて「行成筆」と伝称(でんしょう)されてきたという。また、行成の子孫は代々、宮廷の書役として活躍し、後に世尊寺流(せそんじりゅう)と呼ばれるその一系の書流の祖としても、行成は尊重された(恵美千鶴子『藤原行成の書』)。 行成の書は同時代の人々にももてはやされ、熱烈に愛好されたのであるが、それはその書が当時の貴族社会の好みにもっともかなった調和美を示していることによるものとされる。行成の書における活動は、宮門・殿舎(でんしゃ)の書額から上表文や法会の願文(がんもん)、詩歌の会における執筆、詩文集、歌集、日記等の書写、手本や経の外題(げだい)などの手書、さらには政務に伴う式次第や定文(さだめぶみ)、あるいは書簡というように多方面にわたっていた。これは高級官僚としての激務の間に書かれており、その大半が彼の公人としての生活に密着しているとのことである(黒板伸夫『藤原行成』)。 確実な行成の真跡(しんせき)として、寛仁(かんにん)二年(一〇一八)に記した国宝「白氏詩巻(はくししかん)」(東京国立博物館蔵、唐の白居易〈はっきょい〉の『白氏文集〈はくしもんじゅう〉』中の詩八首を行草体〈ぎょうそうたい〉で書いた詩巻)には行成の子孫である藤原定信(さだのぶ)がこれを行成の書と鑑定した跋語(ばつご)があり、寛仁四年(一〇二〇)に記した重要文化財「書状(しょじょう)」(個人蔵)には、尊円(そんえん)親王が行成の書を称えた添状(そえじょう)が附属している(恵美千鶴子『藤原行成の書』)。