時代考証が解説! 中国舶来品はどのように平安貴族に広まったか?
天皇に奏上するための草案
私がもっとも興味を牽(ひ)かれるのは、実はこれらの美術品ではなく、実務のために記録した文書二点である。一つは寛弘(かんこう)元年(一〇〇四)と寛弘二年(一〇〇五)の「陣定定文案(じんのさだめさだめぶみあん)」(個人蔵)、もう一つは寛弘二年二月十日の「敦康親王初覲関係文書(あつやすしんのうしょきんかんけいもんじょ)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)である。 前者はほとんど人目に触れる機会のないものであり、『大日本史料』もこの原本ではなく、京都大学総合博物館蔵の「諸国条事定定文写(しょこくじょうじさだめさだめぶみうつし)」(平松家文書)を底本として翻刻している。それほどきわめて貴重なものなのである。寛弘元年閏九月五日と寛弘二年四月十四日に行なわれた陣定という公卿議定(くぎょうぎじょう)の結果を天皇に奏上するための定文の草案(そうあん)である。私も数年前に東京国立博物館で開かれた展示会で見ただけである。 後者は三月二十七日に行なわれる初覲(父天皇にはじめて公式に拝謁する儀)について、敦康親王の装束や、当日に奉仕する人々の御膳・饗宴(きょうえん)・理髪の禄といった分担を記した式次第である。敦康親王家別当(べっとう)でもあった行成にとって、敦康の晴れ舞台の準備として、張り切って記録したことが想像される。こちらは三の丸尚蔵館で見ることができる。これらの文書は、美術品よりもかえって『権記(ごんき)』の自筆原本の書風を彷彿(ほうふつ)とさせるものである(倉本一宏『権記』)。
皇統は冷泉系と円融系に分かれていた
23話でいよいよ東宮居貞(おきさだ)親王(後の三条天皇)が登場したついでに、当時の皇統の問題にも触れておこう。村上(むらかみ)天皇の後、皇統は冷泉(れいぜい)系と円融(えんゆう)系に分かれ、交互に位に即く迭立(てつりつ)状態にあった。村上以降の皇位は、冷泉、円融、冷泉系の花山(かざん)、円融系の一条と受け継がれ、冷泉系の三条(居貞)、円融系の敦成(あつひら、一条皇子)、冷泉系の敦明(あつあきら、三条皇子)というように、交互に天皇位を嗣いでいった。後に敦明親王が皇太子の地位を辞退し、一条皇子の敦良(あつなが)が立太子(りったいし)したことによって、円融皇統の独占が確立した。 その際、結果的に一条の子孫が皇位を嗣いでいったので、あたかも最初から円融系が天皇家の嫡流(ちゃくりゅう)であったかのような認識に陥りがちである。しかしながら、当時の常識的な皇位継承順というのは、あくまで冷泉系が嫡流だったのであり、数々の偶然の積み重ねによって、円融―一条系が皇統を嗣いでいくこととなったに過ぎない。 幾度かのチャンスのうち、一つでも三条に有利にはたらいていれば、藤原兼家(かねいえ)が後見していた三条や三条の子孫、あるいは三条の弟である為尊(ためたか)・敦道(あつみち)親王の子孫が皇統を嗣いでいった可能性が高かったのである(倉本一宏『三条天皇』)。為尊・敦道親王がいずれも和泉式部(いずみしきぶ)(江式部〈ごうしきぶ〉、あかね? )と交際の末に早世したのは、もちろん偶然であろうが。