時代考証が解説! 中国舶来品はどのように平安貴族に広まったか?
定子出産にまつわる二つの噂
長徳二年(九九六)十二月十六日、定子(ていし)は一条の第一子を出産した。後に脩子(しゅうし)と名付けられる皇女である。『日本紀略』は、「『出家の後』と云々。『懐孕(かいよう)十二ヶ月』と云々」という二つの噂を注記している。前者は、定子が出家の後に出産したことを非難したものであろうし、後者は、いまだ伊周たちが罪を確定されておらず、定子が内裏にいた二月に懐妊したという、何者かの主張が原史料になっているのであろう。 これで定子が懐妊して皇子女が産める女性であることが明らかになり、一条の寵愛が続けば、次には皇子を産む可能性が高まった。詮子(せんし)や一条の安堵と、道長の焦燥が目に浮かぶようである(倉本一宏『一条天皇』)。
伊周・隆家召還の議を復元する
24話では、長徳三年(九九七)三月二十五日、折から病悩の床にあった詮子の平癒を期して、非常赦が行なわれた。そして十日後の四月五日、「長徳の変」によって、それぞれ筑紫・出雲に流されていた伊周・隆家にこの赦を適用すべきか否かという問題を議す陣定が開かれた。この陣定は『小右記』に詳細が記録されていて、多数の公卿の発言が明らかになっているので、下位の者からという発言順を考慮しながら、その経緯を復元してみる。 1.上卿道長、喚によって一条の御所に参上する(ここで一条が議題を提示した)。 2.道長、陣に復し、諸卿に議題を伝達する。「伊周・隆家に赦を適用すべきか否か、召上ぐべからざるか、赦は適用してもそのまま本所に留めるべきか、それらを定め申せ」と。 3.参議源俊賢、定め申す。「罪を赦すべきことは明らかであるが、召還については、もっぱら勅定によるべきであって、陣定では定め申し難い」と。…意見A 4.参議藤原斉信、定め申す。「両人の罪は赦すべきだが、召還については、明法家に勘申させるべきである」と。…意見B 5.参議源扶義、定め申す。「罪は赦すべきであるが、なお本処に留めるべきである」と。…意見C 6.参議藤原公任、意見Aに同調。 7.参議藤原誠信、意見Bに同調。 8.権中納言平惟仲、意見Aに同調。 9.中納言藤原実資、意見Aに同調。 10.中納言藤原懐忠、定め申す。「罪は赦すべきであるが、召還については、先例を尋ねるべきである」と。…意見D 11.大納言藤原公季、意見Dに同調。 12.右大臣藤原顕光、意見Bに同調。 13.道長は、自分の意見を陳べなかった。 14.道長、各々の意見を心に銘じて座を起ち、御所に参上して奏聞する。 15.道長、座に復し、勅定を諸卿に伝達する。「以前の非常赦の時、このような流人を帝の格別の思召しによって召還した例があれば、召還すべし」と。 16.道長、外記を召し、流人を召す使の例を勘申させる。 意見Aが四人、意見Bが三人、意見Cが一人、意見Dが二人と、公卿の意見は、バラバラに分かれてしまっているが、結果的には、一条の勅定によって最終的に召還が決定されている。 特筆すべきは、第一に一条が議題を提示した際に、みずから三つの選択肢を示して、諸卿にその中から選ぶことを命じているように、少なくとも表面的には、天皇の政治意志が陣定の議事に強い影響力を及ぼした。 また第二にこの陣定における道長の役割は、公卿会議を主宰すること、その会議の結果を天皇に奏聞すること、天皇が最終的な判断を下す際に参考意見を挟むことという、本来ならば、上卿、蔵人頭、関白が行なう事項を、一身で行なうことにあった。道長が関白ではなく内覧に補されたことは、一条と詮子との政治的妥協の産物であろうが、内覧に留まったことは、結果的には一上たる左大臣を兼帯することができたことを意味し、彼の権力をより確実なものとする要因となったのである。 第三に実資が、「余がひそかに思ったことには、法条の指すところは明らかである。ところが敢えて申せなかった」と記しているように、陣定に出された公卿の意見は、必ずしも儀式書のいう「思うところの道理」とは限らず、権力中枢によって提示された議題や、下位の者が述べた選択肢に影響されたものであった可能性がある。 そして第四に、『栄花物語』の記述を信じるならば、両名の召還を発議したのは、詮子、一条、そして道長という権力中枢であった。そうすると、一条が公卿に議題を提示した時点では、すでに権力中枢相互の間には、両者の召還に関するコンセンサスが存在していたことになり、一条が陣定に及ぼした強い影響力も、権力中枢全体の政治意志を代弁したものと言えよう。道長が自分の意見を述べなかったり、諸卿の意見を定文に記さずに「心に銘じて」奏聞したりしたのも(『西宮記』では「軽事は詞で奏す」としているが、この定において議題に上っている事項は、「軽事」とは思えない)、問題の解決はすでに他所において行なわれており、陣定が単なる手続上の儀礼的存在に過ぎなかったためと考えられよう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。 そして隆家は早くも四月二十一日に入京しているが(『小右記』)、いかにも早過ぎる。もしかしたら陣定以前に何者か(実資? )から連絡があったのかもしれない。ちなみに、伊周はさすがに遅れて十二月に入京している(『公卿補任』)。誰も連絡していなかったのであろう。