泉房穂が東大で「全学スト」委員長だったときの記憶…幻のあの時代を語る
泉房穂氏といえば、前明石市長として大胆な市政改革を行い、今は政治状況への鋭い発信と、政界再編に向けた「仕掛け」で知られる現代のキーパーソン。彼には東大時代に恩師がいた。ラディカルな評論家で社会運動家でもある菅孝行氏だ。40年ぶりに再会を果たした師弟が、現代の政治闘争と社会変革の核心を語り合った──。(構成・倉重篤郎) 【写真】再逮捕された「美人すぎる寝屋川市議」の写真集全カット
社会運動は周りの共感を得ないとダメ
菅孝行当時は中曽根政権の時代ですから、運動課題には事欠かなかった。首都圏学生実とか、学生の団体とデモの隊列が近いところになると、機動隊の弾圧がキツい。それに、市民の隊列でも私たちが掲げた反天皇制というテーマには機動隊の顔つきが違うんですよ。くたびれた覚えがよくあります。 泉房穂一番最初に行った集会は優生保護法反対でしたね。狭山事件の集会にも三里塚の集会にも行きました。声がかかれば社会勉強という思いで行きました。行ったらいきなりヘルメットを渡され、「ここは激しいな」と思いながら。 菅デモの主催者が、ノンポリにも無理やりかぶせるとか、まだ、結構やってたからね。 泉私はマスクとヘルメットが嫌でね。社会運動は、一人ヒロイズムに酔うんじゃなくて、より多くのまわりの共感を得ないとダメだと思ってました。「街行く人が笑顔で見てくれて、一緒に入ってくるようなデモをしたい」と言ってたんです。 菅学生の観念至上主義には話が通じなかったでしょうね。イデオロギー的に極左的なのが一番いいという気風が、まだまだ、残っていた時代でしたから。 泉私は「飛び出す立て看」というのも作りました。家永教科書裁判にからめて、「侵略」を「進出」に置き換えるのはおかしいと、折り紙を使って、幼稚園にあるような楽しい形の立て看にしました。反対運動の歌も作って、ダンスと組み合わせることも考えましたが、みんなにバカにされて「真面目にやれ」と言われたので外しました。私としては、抵抗というのはイカツい学生運動ではアカン、限界がある、ということだったんです。 菅泉さん個人に対しては「この人はとても変わってる」と思いました。いわゆるアクティブな学生の活動家というと、党派はもちろん無党派でも、理路整然と情勢分析や任務を語って、方針を出す、そういうことがよくできる賢いヤツがへゲモニーを取る感じでした。泉さんは理論より先に体が動いちゃう。若いころからそうでした。 泉自分としては「いかにして仲間を増やすか」という強い意識がありました。何をしたかというと、難しい理屈の前に、まず女子寮と合コンする。大学の教授をたぶらかすために麻雀大会をする。手法としてはそっちから入って、仲良くなってから「寮の活動を一緒にやろう」ともっていくタイプやったので。 理屈で説得するよりも、仲間を増やして教授も味方に変えていく形のやり方はしてましたから、そこは変わっていたと思いますね。邪道といえば邪道かもしれないけど。 菅観念的に過激で、許すべからざる敵を示してそれと闘えというタイプの物言いが学生運動では一般的だった。それだけではダメ、というのは泉さんの言われる通りなんだけど、学生だてらに一見、生活に根差したテーマで「話し合いをしましょう」みたいなことをやる人たちも胡散臭かったりしたから難しい。いずれにしても、泉さんの人間関係をつくる「政治力」は独特だった。