泉房穂が東大で「全学スト」委員長だったときの記憶…幻のあの時代を語る
全学ストで負けて、退学届を出した
菅全学ストの実行委員長はあなた? 泉そうです。でも私は「ストライキなんてやったって勝たれへんからやめよう」と言ってた方なんです。リーダーやったけど一番慎重やったんです。だけど、みんな血気盛んで「泉は日和りよって」「根性なし」とか言うから、「そない言うんやったらホンマに戦うぞ」と。「オマエらここで戦って負けたら、腹くくって責任取って退学できんのか!」と言ったら「当たり前やないか!」と言うから突っこんだのに、誰も退学せず、私だけが退学届を出した。私はそれもショックで、何もかも嫌になってアジア放浪の旅に出たんです。 菅退学届を出した相手の教授が預かりにして、処理しなかったんですか。 泉当時東大教養学部は小出昭一郎さんという、物理学専攻のリベラル系の学者さんが学部長でした。その方と学生代表の私が1対1の団交みたいなことをやってたんですが、先方の親玉が私のことをかわいがってくれて、退学届も預かり扱いにしてくれていたんですね。半年経ってから連絡があって「帰ってきなさい」と言うて、それで復学したという経緯です。 菅東大は万が一処分になったとしても、退学届に関しては、昔学生運動が盛んだったから、すぐ退学処分にするんだけど、いったん退学になった学生が戻ったりとか、いっぱいあります。 泉今はないでしょうね。当時はまだ名残の時代だったので、若気の至りで勢いで言っても、すぐに処理しない状況があったかもしれません。 菅気風が京大と違いました。京大はなかなか処分しないけど、出されたら最後です。歴史学者の松浦玲さんがそうでした。東大はすぐ処分するけど、本人が「戻りたい」と言ったら教授の裁量ですぐ戻す。ある時期までは、これでやってきたんです。今はなかなか処分者も出ないでしょうが、出たら最後、学生に処分はけしからんという動きも起きないでしょう。 泉今日はお会いできて、うれしいです。漁師の小せがれが、思うところがあり田舎から東京に行った時に、社会との接点を作ってくれたのが菅さんです。狭い学内だけじゃなくて、実社会とのつながり、橋渡しを作っていただいた。私は当時「心情右翼」と言われていたんです。「家族」とか「愛」とか言ってたから。理論的じゃなくて。 菅学生の中で浮いてたでしょう(笑)? 東大だし、理屈から入らないと納得しないヤツばかりだから。私も他人事じゃないんで、四十台になって、24歳の時に書いた文章を読んだ人から、観念小僧の文章だなって言われた(笑)。 泉さんは若いころから、おじさん、おばさんの普通の言葉で応答ができた。レアな変種ですよ。 泉「そんな人が聞いてわからんようなワードを使うな。地域のオッチャンに説明してわかって『そうやな』と言ってくれるようなことを言うべきであって、自分たちだけが取ってつけたような言葉を言い合ったってしょうがない」と言ってました。菅さんに講義していただいて、どんどん学生の見方が変わっていったのを覚えています。当時も今もそうでしょうけど、菅さんは「現在進行形で今の日本社会を変えるべきだ」というスタンスがはっきりしてはったので。菅さんにお越しいただき、本当に心丈夫が強かったです。 菅そういっていただいて光栄ですが、PARC自由学校に関しては、私は紹介者に過ぎないです。あなたに寄与したものがあったとすれば、講師の話と、その後の議論と、あの場所にあった熱気というか気風というか、そういうものですね。80年代って、一面では、戦後日本に微かにあった、世界を変える機運の土台が国鉄の分割民営化とかで潰されてゆく時代ですが、反面では、まだまだ変革への動向が豊穣だった、ということですね。発信する人はたくさんいたわけだから。泉さんは、その豊穣さを養分にしてきたのでしょう。 《つづきを読む》異色対談 菅孝行が前明石市長・泉房穂に問う「変革への道筋」…「成功事例がないと誰も信用しない」
泉 房穂、菅 孝行