東芝の売上は「ピーク時の半分以下」に。白物家電やテレビを手放した、かつての“一流メーカー”の今
経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回は株式会社東芝の業績について紹介したいと思います。 三井財閥系の東京芝浦電気を前身とする東芝は、原発やインフラ設備・家電と、重電・軽電の両方を担う総合電機メーカーとして成長しました。同社は経団連会長も輩出し、日本を代表する企業となりました。しかし2000年代から消費者向けの事業が悪化すると粉飾決算を行い、頼みの綱である原発事業では不良案件を掴まされたことで、ボロボロな状態に陥りました。不正とガバナンスの甘さで凋落した東芝の歴史を振り返りたいと思います。
「日本初の製品」を数多く生産
東芝は1939年に芝浦製作所と東京電機が合併して誕生した東京芝浦電気を前身とします。戦前から戦時中は電球や真空管、発電機などを生産し、戦後は日本初のテレビ放送機や電子レンジ、カラーテレビを開発して先端製品の国産化に尽力しました。60年代はテレビの量産で台頭しましたが、三洋電機や松下電器、シャープなどの競合も多く、家電全般における当時のシェアは2割程度だったと言われています。 重電分野では1970年に敦賀原発の1号機から商用原子力発電所の事業を開始し、71年に運転を開始した福島第一原発の1号機では運用を担いました(設備はGE製)。同原発の3号機から設備及び運用の両面で東芝が担うようになります。
先端分野でシェアトップを握る
1984年には社名を東芝に変更し、翌年には世界初のノートPC「T1100」を発売しました。また、80年代全般にかけて半導体事業に2,000億円を投じ、1MのDRAMでは世界シェアトップの座につきました。重電・軽電メーカーとして、国内外の電気インフラを支えたのです。 90年代にはNAND型メモリでも台頭し、1994年から2000年の間はノートPCの販売シェアで世界トップの座を維持し続けました。国内では「dynabook」ブランド名で知られています。しかし米中勢の台頭を前にノートPCのシェアは落ち込み、DRAM事業からも撤退しました。2008年3月期に売上高は7兆6,653億円のピークを迎えるも、家電分野では海外シェアを伸ばせずに苦戦。国内事業も落ち込む中で不正に手を染めるようになりました。