「いま思うと、脳をやられていました」小林悠が悩んだ日々。川崎フロンターレのためとエゴの狭間で出した答え【独占取材】
15年間、川崎フロンターレ一筋でプレーする小林悠。歴代7位のJリーグ通算142ゴールを積み重ねてきた過程では、怪我に悩まされた時期も、移籍すべきか思案を重ねた時期もあった。独占インタビュー第2回では、川崎で過ごしてきた日々を振り返る。(取材・文:藤江直人、取材日:11月15日) 【最新順位表】2024明治安田Jリーグ J1・J2・J3全60クラブ
●ベンチにすら入れない日々…。「オニさんがいなかったら、ここまでプレーできていなかった」
小林悠のプロキャリアはリハビリではじまった。拓殖大学4年生だった2009年の秋。右膝前十字靱帯を断裂する大怪我を負い、卒業後の加入が内定していた川崎フロンターレの強化部へ、涙まじりに「契約が取り消しにならないでしょうか」と電話を入れるほどショックを受けた。 受話器の向こう側から返ってきた「サッカーに怪我はつきもの。うちは大丈夫だから」という声に励まされ、背番号24とともに迎えた2010シーズン。公式戦デビューは9月6日の鹿屋体育大学との天皇杯2回戦までずれ込み、J1リーグでは6試合、151分の出場で無得点に終わっている。 「1年目はまったく試合に絡めなかった。フォワードに怪我人が続出して、あとは僕しかいない、という状況になってもベンチにすら入れなくて。居残り組で練習をしていても本当に悔しくて、周囲の人たちへ相談しながら涙を流すときもあったんですけど……」 絶望的な思いに駆られるたびに、近くには鬼木達コーチの姿があった。2006年の現役引退後は川崎の育成・普及部コーチなどをへて、2010年にトップチームのコーチに就任。2017年に監督に就任し、今シーズンをもって退団する指揮官と、小林が川崎のトップチームで共有してきた時間は完全に一致する。 「試合に出られなかった時期も、オニさん(鬼木監督)はジョギングで付き添ってくれました。1年目から支えてくれたオニさんがいなかったら、ここまでプレーできていなかったと思います」 2年目となる2011シーズンを前に、背番号を11に変えた。外国人選手の退団に伴い、空き番となった11への変更を強化部から打診された小林は二つ返事で承諾しながら、もうひとつの思いも込めた。 「自分を追い込むというか、そういう意味でもつけさせてもらいました」 大卒選手ゆえに、プロで与えられる時間は決して長くない。逃げ道をなくす意味も込めて背負った11番が、現在進行形で成長している、という実感とともに輝きを放ったのは2014シーズンだった。