「いま思うと、脳をやられていました」小林悠が悩んだ日々。川崎フロンターレのためとエゴの狭間で出した答え【独占取材】
●「脳をやられていた」ガラスのエースの悲痛な胸中
「あのときは左のレナト、真ん中の(大久保)嘉人さんとの3トップで、正直、3人いれば絶対に誰かが点を取れる感覚でした。最初は右サイドでのプレーがすごく嫌でしたけど、そこでどのように点を取ればいいのかを覚えてからは楽しかったですね。左で崩しているときに最後、自分も真ん中へ入っていけば2トップのようになると考えるようになってからですね。あの時期は自分が一番成長したと思っています。自分の引き出しがすごく増えましたし、いまでも右サイドでプレーするときは生きています」 最終的に12ゴールをあげて、2年目の2011シーズンに並んだ。それでも先発が29試合とほぼ倍増し、プレー時間も1521分から2515分へと大幅に増えた。自信を深めた小林は、2015シーズンを勝負の年と位置づけた。川崎に悲願の初タイトルをもたらし、自らも日本代表に定着する、と。 しかし、結果は5ゴール。発足したばかりのハリルジャパンに招集されながら、合宿を途中離脱する原因となった怪我を繰り返した1年に、小林は「いま思うと、脳をやられていました」と苦笑する。 「当時の風間(八宏)監督は、試合前のミーティングで『目を閉じて、試合で活躍する姿をイメージしよう』とよく言うんですけど、イメージのなかで僕は肉離れしていたほどでした。何に対してもこだわった1年でしたけど、逆にストイックすぎてよくなかったというか、ちょっと余裕がなかったと感じています」 当時のブログには「ガラスのエース」と呼ばれた当時の小林の悲痛な胸中が綴られている。 「誰かが言っていました。『神様は乗り越えられる人にしか試練を与えないんだよ』と。神様に言いたい。何回目だよ!そんな俺強くないわ!」 朝一番でクラブハウスへ向かい、体に入念なケアを施してから練習に臨んでも怪我をする。大学の同級生で、2012年1月の結婚後は在学中に取得した管理栄養士の資格を駆使して、食事面などで懸命にサポートしてきた夫人の直子さんの姿を思い浮かべながら、小林は「嫌だな。この話をすると泣きたくなる」と続けた。