二十歳のとき、何をしていたか?/長州力 布団を抱えて降り立った東京駅。夢だったオリンピック出場に向け、練習とアルバイトを繰り返す日々。
時代に翻弄されながらも、生きることに必死だった。
スカウトを受けて進学した専修大学は、オリンピックを目指す実力者たちが数多く揃ったレスリング強豪校。ライバルたちとしのぎを削ってきた長州さんは、二十歳のときに念願だったミュンヘンオリンピック出場を果たすこととなった。 「オリンピックを目指した理由? あれは昭和39年の東京オリンピックですよ。俺が中学1年生のとき。テレビで開会式を見てたら真っ赤なブレザーを着た日本の選手団が入場してきてね。今とは違って当時はまだ軍隊式行進で入場してくるからキレイに揃っていてね。それを見て、『おー、カッコイイな!』って子供心に思ったんだよ。それでなぜか知らないけど、『ああ、俺もオリンピックに出てみたいな』って思ったんだよな」 あのとき見たオリンピック出場の夢が叶おうとしている一方で、いち大学生だった長州さんの生活は入学時から変わらず。そこで、ある問題が起きてしまう。 「強化合宿に行く費用がないんですよ。当時は合宿もみんな自腹。そうなったらアルバイトをしなきゃいけない。深夜から朝にかけて道路の側溝の蓋をふたりがかりで引き上げていく力仕事でもらった日当が4000円。寮でのひと月のメシ代が6000円だったから、バイトとしてはとても良かったけど、それだけでは足りない。とにかく稼ぐしかなかった」 日中はレスリングの練習、夜はバイト。一日のなかで拘束されている時間のほうが長い日々。流行りのファッションや音楽には疎かったが、空いた時間があれば決まって楽しむ趣味があった。 「日直に当たらなかったら、朝一番のバスで向ヶ丘遊園駅まで行って、そこから小田急線に乗り継いで新宿まで行ってましたよ。映画館で洋画を1本見て、ちょっと贅沢をしようかなと思ったら西口のしょんべん横丁に行ってクジラのカツを食べる。それが一番の楽しみでしたね」 激動の時代とともに過ごした大学4年間は振り返ればあっという間だった。1974年、オリンピック出場の実績をひっさげて新日本プロレスに入団。憧れて飛び込んだ世界、というのとは少々事情が異なり、プロレスの道を選んだのは生きていくためだったのだ。 「初任給は月給で7万~8万。『えっ、こんなにもらえるんだ!』って驚いたよ。合宿所に住めるし、ジャージとか着るものももらえて、肉だって毎日食える。これでいったいなにが不満だっていうんだ。不満なんかなにもありませんよ」 生きていくには十分すぎる環境。本人もそこに不満はない。ところが、その思いとは裏腹に、プロレスラー長州力としての20代後半は、周囲の期待に応えることができず伸び悩む日々の繰り返し。新日本プロレスの黄金時代とともに長州さんがブレイクを果たしたのは30歳を過ぎてからであり、意外にも遅咲きであったのだ。 そんな長州さんに「二十歳のときにこれだけはやっておいたほうがいいことってありますか?」という質問をあえてぶつけてみた。 「あー、ないね。うん、ない」 らしい返答といえばらしいけれど、それでは困る。すると長州さんは口を開いた。 「あまり難しいことを考えなくても、生きていけることは間違いないよ。でも、ひとつだけ守るものがあるとすれば道徳だろうな。そこだけは絶対に踏み外しちゃいけない。これは子供だろうと大人だろうと一緒。それさえきちんと守っていれば。生きることはなにも難しいことではないんだ」