老後の生活が豊かな人に共通する「お金の使い方」
古くから日本人は、簡素な暮らしの中に豊かさを見出してきました。あるものだけで満ち足りる暮らしは、現代人が求める物質的な豊かさとは対照的です。しかし、老後の生活は限られた資金の中でいかに充実したものにするかが課題となります。 【図】60代から自分に不足するお金の割り出し方 そこで重要なのが、古来より受け継がれてきた「足るを知る」という精神なのです。書籍『お金をかけない「老後」の楽しみ方』から紹介します。 ※本稿は、保坂隆著『お金をかけない「老後」の楽しみ方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
簡素の中に「高度な精神世界」を楽しんだ日本人
テレビの番組で、ブルボン王朝の栄耀栄華をいまに伝えるフランスのヴェルサイユ宮殿を見たことがあります。宮殿の内部は目もくらむばかりのゴージャスさ。天井からはきらめくシャンデリアが数えきれないほど下がり、壁面は重厚なタペストリーで覆われています。家具調度も絢爛豪華......。どこもかしこも一部の隙もなく飾り立てられ、ただただ圧倒されました。 北京の紫禁城も過剰なほどの装飾で埋め尽くされていますし、韓国の王朝ドラマからも城内が華やかに飾り立てられていた様子が窺えます。 これに比べて、日本の御所や城は簡素で素っ気ないくらいです。天皇や城主の権勢を示しているのは、格天井や金泥などで描かれた襖絵ぐらい。謁見の座も配下の者の位置より一段高くなっているだけで、家具調度もほとんど置かれていません。 これは日本が貧しい国だったからでしょうか? いえ、ヴェルサイユ宮殿や紫禁城との違いは富の差ではなく、日本人は本来、欲を膨らませたり、富をひけらかすのは卑しいことだと考える精神性を持っていたからだ――。私はそう考えています。 それは、太閤・秀吉が純金の茶室を造ったときの、千利休をはじめとする周囲の冷ややかな蔑視を込めたまなざしにも窺えると思います。古来、日本人は、モノのないすっきりとした空間のほうが、むしろ豊かなイマジネーションを羽ばたかせることを知っていたのです。 正面に松を描いただけの能舞台など、その象徴と言えるでしょう。観客はこの松だけの舞台に、あるときは深山幽谷を、あるときは大海原をと、千変万化の自然をイメージし、森羅万象に通じる世界に心を遊ばせるという高度な精神世界を楽しんでいたわけです。 その日本人がいったいいつ頃から、ものを所有することにこだわり、あふれるほどのものに埋もれた暮らしをよしとするようになってしまったのでしょうか。 現代の私たちにとって、仕事上の義理や世間付き合いのしがらみから解放される老いの日は、不要なものを整理して、身の周りをすっきり整えて、簡素であることの歓びを取り戻す絶好の機会だと思います。 必要なものだけがある暮らし。あるいは、あるものだけで満ち足りる暮らし。年長の人間がそうした暮らしを取り戻せば、そこを訪れる子どもや孫など次世代にも浸透していき、日本人が長く伝えてきた精神性豊かな、簡素な暮らしの心地よさを伝えていくことができるのではないでしょうか。 社会が高齢者に求めているのは、日本文化の真の精神性を継承し、後の世代に伝えていく「中継役」だと思うのです。